男を見る目がない女は男を見る目がある

周りの人から「男を見る目がない」と言われる女性がいる。DVや浮気、ギャンブルで生活費がない、働かないなど、問題がある男とばかり付き合う女性のことだ。
これは当たり前だが、「付き合ったら幸せになれる男を探しているはず」なのに、そうではない男ばかりを「間違って」選んでいるということだ。
しかし、10回中例えば3、4回「間違えて」選ぶなら見る目がないということになろうが、10回中10回間違えているならそこには何か必然性があるのではないかということだ。

昔中学の英語の期末テストで内容一致の正誤問題が10問出題された。それぞれの文が正しいかどうかで◯か✕を選ぶ問題だ。答案が返却された時、ほとんど勉強してないやつが、「全問不正解だったよ」と言ってその答案を周りに見せてみんなで爆笑して盛り上がっていた。彼は正解しようとしていたと言う。適当に◯✕をつけても全問不正解の確率は0.1%ほどだ。そのとき私は「こいつは本当は全てをわかっているのではないか」というような空想を巡らせた。当てようと思って選んでいるのに全てはずしたならそこにははずすコツのようなものがあったのではないか。そこに「正解性」のようなものがあって、実はそれを無意識に捉えているからこそ意識で選ぶ段階においてそれら全てをはずすことができたのではないかと考えたのだ。そうするとそこには必然性のようなものがあったことになるのではないか。そんなおかしな空想を巡らせていた。
政党やマスメディア、「有識者」の中には、「それ逆じゃない?」と毎回思わされるようなことばかり主張しているような人たちもいる。これも実は何がいいことなのか本当は全て知っているのではないかと考えた。全部知ってるからこそ全部はずせるのだ。そうじゃなければ当たったりはずれたりしそうなものだ。最近はむしろ彼らの逆を行けば正解に辿り着くのではないかとさえ思う。考え方の違いやら価値観の違いなどではないわけだ。

「見る目のない」女性も同じではないか。無意識のレベルでどの男がやばいのかわかっているからこそ意識レベルでハズレを選べる、つまり「見えている」のではないか。ハズレの男をリビドーが求めている。意識はそれに抗えない。仮に無意識を意識が暴きたてたとしてもそれを抑えることは容易ではない。特に若い頃はそうだ。

思うに、当たりハズレとは、そもそも社会的な価値観に基づく当たりハズレだ。例えば粗暴とか働かないのが悪というのは当然社会的に悪ということだ。その評価は第三者に向けられる限りでの評価だ。「共依存」とか「世話される人への同一化を通しての満足」などなど、その心理的メカニズムはいろいろ言われる。メカニズムは何であれ、その相手と第三者としてではなく、相互に向き合う二者関係やもしかしたら融合して一者となってしまうといったような、第三者として対峙する以外の形式で向き合うわけだ。
「見る目がない人」は、そのリビドーが社会的視線とは逆ベクトルであるようなそんな生き方をしていることになるのではないか。そしてもしかしたら、そのような人たちにとっては社会的ということこそ人間の生にとっては逆張りのまやかしであるようにその本能が捉えているのかもしれない。


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