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アイスクリームユニバース


「佐々木」

「何?」

「宇宙ってデカくね?」

「・・・そうだね」

完璧な絶叫と完璧な沈黙は、同じ音がする。仮に音というものを鼓膜に伝播した物体の振動と定義するのであれば、両者はともに皮膜の無限の動であり、無限の静である。肉体の中心から発せられる実存の叫びは、皮膚直下で反響を繰り返し、決して体外の空気を振動させることはない。それゆえ、人体は、沈黙の絶叫を閉じ込めた鋼鉄の檻と化し、常にその崩壊の予感に震えているのである。崩壊は、救いである。わずかな隙間が生じれば、一瞬にして皮膚は、決壊し、垂直の絶叫が暗黒の太陽を破壊するだろう。だが肉体は、容易にその崩壊を許すほど脆弱ではない。声にならない絶叫の振幅が体中で増大し、精神は、狂気によって生存をはかる。

満月は、邪悪だ。なぜ誰も気づかないのだ。あれほど邪悪なものの存在が許されるはずない。破壊しよう。議会は、満場一致で満月の破壊を決定。防衛費の二百パーセントの増大と空軍の強化訓練をその日のうちに開始した。女王陛下は、憂いていた。この国の民主主義は、壊れてしまった。そこで、彼女は、スコットランドを宮廷に招いた。スコットランドは、二十年前かつて女王と愛し合った時の証であるチェックの上着と帽子を身につけていた。それは、まだ女王が王女であり、若く自信に満ちていたときに恋人であるスコットランドにプレゼントしたものだった。二人は、遠い過去思い出し、現在の全てを忘れるため一夜を共に過ごした。

 同じ夜、間に合わせの訓練を終えた飛行士たちが、海岸に集められた。訓練は、三日しか行われていなかった。満月の時まで、残されていた時間はたったそれだけだったのだ。

 東側の水平線に姿をあらわした月を指差して長官は言った。

「見よ、月だ。許され難い邪悪さだ!」

飛行士たちは、まっすぐ長官の指差す白い丸を見ていた。確かにそれは、悪意に満ちているようだった。

 「敵が、南中するのは今夜零時とみられ、午前六時ごろ退却するものと思われる。その間、可能な限り敵に接近し、自爆することも惜しまず、徹底的な攻撃を行う。作戦は、以上。たとえ諸君が死んでもその名は、永久に英雄として歴史に刻まれる。また、もし諸君が怖気づいて、帰って来たとしても、諸君は、朝日を浴びれば蟹になってしまうのだからそのつもりでいたまえ。私としては、蟹として食われるよりも祖国のために名誉ある戦いを選ぶことを諸君に期待する。」

 長官の背に、月の卑猥な白い光が投げられる。飛行士たちには、巨大な白い円の中に長官の形の影がくり抜かれているように見えた。誰も何も言わなかった。怖かったのだ。あれほど巨大で邪悪な白にかなうはずがない。波の音がいつまでも、いつまでも聞こえていた。

やがて、出撃の時が来た。飛行士たちは、黙ってそれぞれの複葉機に乗り込み、夜の暗黒に開いた恐るべき光の穴へ向かって飛び立っていった。

上へ、上へと墜落してゆく。一機、また一機と燃え上がる。月にかなうはずがないのだ。かつて帝国主義との戦争で活躍したベテランの飛行士でさえ、月の前には無力だった。星は、上へ墜落していった飛行機の燃える残骸だ。俺たちの真上に広がる硬く、冷たいあの場所で、壊れたエンジンの断末魔と翼が炎に喰われてゆく音が、誰の鼓膜を震わせることなく空間に溶けてゆく。

 女王陛下は、帰ることのない飛行士たちを思い、涙を流す。もう、スコットランドはいない。朝、陛下が目を覚ますと、宮廷にはまだ暖かい朝食と淹れたてのコーヒーだけが残されていて、上着と帽子は、どこにもなかった。スコットランドは、朝日と共に出ていった。白む空の中にかつて飛行士だった星々が溶解する。それを嘲笑うかのように西の地平線で転がる月に、女王はピストルをむけた。

 俺は、風呂場で巻貝たちの叫びを聞いた。五十音全てのひらがなに濁点をつけて同時に声に出したような音だった。俺も泣き叫んでいた。二日前から、消しゴムが見つからないのだ。だが、無くしたものは消しゴムではない。

舞台上で俺は、羊に尋ねてみた。巻貝たちの叫びが聞こえるか、消しゴムを探し泣き叫ぶ俺の声が聞こえるか。聞こえるはずがない。それでいい。

「水だ!」客席で誰かが言うと、サスペンションライトの上にひそむ魔物たちが金属バットを投げてくる。一本が俺の頭に直撃し、俺の脳天が割れる。舞台に俺の脳みそが落ちる。カラスたちがやって来てそれをついばむ。客席から小学生が出てきて、カラスを握りしめると、力まかせに床に叩きつけた。

 合図だ。カラスの破壊。羽を持った呪いが道徳教育によって裁かれたのだ。観客は、みな狂喜し一斉に自分の左側の人間を殴り、右側の人間に殴られる。みんな笑顔だ。なんて楽しそうなのだ。今度は、右側の人間を殴り、左側の人間に殴られる。そうやって、何度も互いの顔の見分けがつかなくなるまで殴りあうと、安心して眠ってしまった。

上手から、二メートルのアブが登場し、舞台中央で金属バットに射抜かれ絶命する。中から羊が出てきて言う。

「宇宙は、大きいな」

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