伊武真田太平記 第3巻

この物語はにじさんじ所属の配信者イブラヒムさんのゲーム「信長の野望」の配信を元にした軍記風二次創作です。基本的には配信内の展開に従っていますが、一部に独自の解釈などを盛り込んでいることに留意してください。

10 今川攻め

 甲州征伐後の伊武真田領は、信濃、甲斐、上野、伊豆にまで及ぶ広大なものとなった。そして武田家の旧臣を大量に捕縛したことは、人材難の真田家にとってこれ以上ない戦果であった。

 伊武真田家が上洛を現実的な目標とみなし始めたのはちょうどこの頃である。朝廷に対する工作を開始した伊武ラヒムは、翌1625年11月に上野介に任じられている。この事実は、中央の有力者たちにとっても伊武真田が無視できない存在になりつつあることを意味している。

 伊武真田の次なる目標は、駿府の今川であった。富士吉田城の戦いに際し、上杉の介入で停戦協定を結んだ両家は、甲州征伐という領土争いの勝者と敗者であった。その勝者である真田が、勢いそのままに今川を飲み込まんとするのは当然のことであった。

 1624年8月、伊武真田軍は韮山城、躑躅ヶ崎館、富士吉田城などから合計2万の軍を派遣し、今川家の支城である蒲原城を攻めた。今川軍は戌亥とこ隊など約1万の兵力でこれを迎え撃ったが、倍近い兵力差に圧倒され、蒲原城を手放して駿府館へと撤退した。蒲原城は11月に陥落し、伊武真田は今川に王手をかける。勢いそのまま駿府館へと襲い掛かった伊武真田軍だが、12月に事態は一変する。北条の主導で、反伊達連合が結成されたのである。

11 反伊達連合

 勢力拡張の一途にある伊武真田に、北条は密かに危機感を募らせていた。1624年6月、北条は館山家を滅ぼして関東平野の平定を遂げた。しかし、伊武真田家が予想よりも早く甲州征伐を遂げ、さらに富士吉田城や韮山城を落として伊豆半島まで制圧したことが、北条が目指していた東海道経由での上洛計画に暗い影を落とす。さらに伊武真田軍は今川を滅ぼし、駿府までその支配を広げようとしていた。北条には、伊武真田が共通の敵を持つ同盟相手ではなく、北条家を関東平野に閉じ込める危険な存在と映りつつあった。

 北条家は、これに対応して二つの手を打った。一つは、伊武真田家が甲州・駿府に兵を割かれている間に始まった常陸の佐竹攻め。そしてもう一つは、佐竹家の背後にある東北の雄、伊達家に対する北条・伊武真田・今川連合の構築である。

 この連合の結成で、まず北条は万全の状態で常陸、そして陸奥へと攻め入る環境を確保した。さらに、この連合に今川を巻き込むことで、伊武真田家の駿府攻めを中断させることに成功し、伊武真田による東海道の完全封鎖を阻止した。しかし最も重要であったのは、伊達と同盟関係にある上杉を伊武真田家と敵対させたという点である。北条が伊武真田を警戒するように、上杉もまた伊武真田を警戒していた。この対立を煽ることで、北条は伊武真田をけん制しつつ北へと勢力を拡大できるだろうと計算していた。

 かくして、北条・伊武真田対伊達・上杉という東国大名の構図が完成した。

 伊武真田にとって、思わぬ横やりが入る形で今川攻めは中断を余儀なくされた。上杉が攻めてくるなら南に兵力を割いている場合ではなくなるし、これ以上北条を刺激することが得策ではないのは明らかだった。今川攻めはこのような形で中断された。

 反伊達連合の成立は、伊武真田と北条による常陸攻めの勢いを加速させた。1924年12月に伊武真田・北条は協力して宇都宮城を攻略。さらに北の烏山城へと襲い掛かると、翌1月にはこれを制圧した。さらに伊武真田は真岡城を攻撃、一方の北条は常陸最北の城、大田原城への攻撃を開始する。前者は4月に陥落し、後者の戦いも伊達の援軍を打ち破った北条の勝利に終わる。かつて伊武真田を脅かした佐竹も、ここに滅ぶこととなったのである。

 このように、常陸攻めは北条の主導で行われたが、伊武真田もこの戦いで常陸にいくつかの城を確保している。先述した烏山城や真岡城、さらに常陸東部の石塚城や太田城も伊武真田の手に落ちた。

 1625年7月、大田原城に伊達の目が向いている隙を狙って、伊武真田は相馬家の唯一の城である飯野平城への攻撃を開始する。太平洋側にあるこの城への遠征は、伊達領の目と鼻の先への出兵でもあり、さすがに無理があるとの意見もあったが、伊武ラヒムはこれを断行する。いずれ伊達と戦うとき、拠点となる城を太平洋沿岸にも確保しておきたいという狙いがあったためである。この攻撃は成功し、飯野平城は伊武真田の手に落ちた。しかし1626年1月、今度は伊達が飯野平城を奪わんと兵を送る。伊武真田は北条の援軍と協力してこれを撃退しようとする。

 しかし、事態は風雲急を告げる。1626年2月、上杉が信濃と飛騨への侵攻を開始したのである。

12 川中島の戦い

 北信濃で犀川は千曲川(信濃川)へと合流する。かつては洪水などでしばしば地形が変わるほどの被害を受けたこの地域も、伊武真田家の治水事業によって人々の生活を潤す信濃の数少ない田園地帯の一つへと変貌を遂げていた。この辺りを初めて「川中島」と呼んだのは、甲斐の虎・武田信玄であったという。

 周辺には坂上田村麻呂の伝説が残っていたり、源平合戦では倶利伽羅峠の戦いの前哨戦が起きた地域でもあったりと、確かに古くからこの地域は軍事的に重要な場所であったようである。しかし、伊武真田家の本拠・葛尾城が南にほんの僅かのところにある戦国時代、その軍事的重要性はかつてないほどにまで高まっていた。

 10年前、上杉軍の最初の侵攻を、伊武真田軍が葛尾城まで引き込んで迎え撃ったのは、最悪の場合に籠城戦まで覚悟していたからであった。だが、今回は違う。伊武真田軍には歴戦の兵が十分な数揃っていた。大将伊武ラヒムは、川中島に陣を置いて上杉軍を迎え撃ち、上杉軍は正面からこれに襲い掛かった。これが日本の戦史に残る激戦、川中島の戦いである。

 1626年2月、上杉軍が葛尾城攻略に派遣した兵力は28000。春日山城方面から道なりに葛尾城を目指して進軍を始めた。伊武真田軍は、出しうる限り最大の戦力でこれを迎え撃とうとしていた。葛尾城の伊武ラヒム率いる4000の兵と箕輪城から出た真田幸村率いる10000の兵が伊武真田軍の主力であった。中央右にはフレン隊4000が、最右翼には武田信玄率いる2000の隊もおり、伊武真田軍の兵力は28000にも及んだ。

  1626年3月26日午前9時、冷たい雨が降りしきる中、伊武軍が仕掛ける形で戦いが始まった。最初に接敵したのは左翼の山県隊で、上杉の愛園隊を追いかける隙に横からの攻撃を受けた。しかし、中央の伊武真田軍が山県隊の背後を回って上杉軍右翼を攻撃し、伊武真田軍は左翼で優勢となった。伊武真田軍は右翼でも敵左翼と激突し、武田信玄隊がこれを食い止め、敵を中央へと押し込んだ。

 両翼での優勢を把握した伊武軍は、中央の伊武ラヒム隊、フレン隊、幸村隊を前進させた。これを目掛けて、上杉為景率いる上杉軍の主力6000が襲い掛かる。為景隊と幸村隊の戦闘は一進一退のまましばらく続いた。同じころ、伊武隊とフレン隊は敵の猛攻に晒されていた。伊武隊はフレン隊が敵を引き付ける間に退いた。上杉軍はフレン隊を打ち破り伊武隊を追撃すべく一気に前進した。しかし、両翼において優位にあった伊武真田軍は、突出してきた上杉軍中央への包囲を完成させつつあった。特に、伊武真田軍左翼からの攻撃に、上杉為景隊は総崩れとなった。昼1時過ぎには戦況は互角から伊武真田軍の優位へと大きく傾いたとされる。上杉軍は三方向からの強烈な攻撃によって18000の兵の大半を失い、散り散りとなって撤退した。

 伊武真田軍も、幸村隊、フレン隊を中心に被害は少なくなかった。しかし、そもそもの兵力で勝っていたこと、武田家の遺臣が現場指揮官として実力を示したこと、そして葛尾城近くから補給を得ることができるという優位が伊武真田に大きく味方した。

 一方の上杉軍は、この会戦での完全敗北によって、一転して窮地に立たされた。上杉軍の主力は加賀方面から飛騨を攻略しており、伊武ラヒムの目の前には大量の兵を失って無防備となった越後平野が広がっていた。

13 飛騨諏訪争乱

 伊武真田を真に悩ませていたのは飛騨の動向であった。飛騨には高原諏訪城という伊武真田の支城があるのだが、葛葉城への攻撃と時を同じくして、こちらへと上杉謙信ら上杉の主力15000が押し寄せてきたのである。信濃や甲斐から飛騨への道は険しく、そう簡単に援軍を呼ぶことはできない。徳川からの援軍も、決して頼りにできる規模ではなかった。飛騨での戦いは、葛葉レオやメリー金蓮華といった歴戦の将たちの動きに委ねられることとなったのである。

 近年の研究は、上杉軍の葛尾城攻めは陽動であり、上杉謙信の真の目的は飛騨地域の制圧にこそあった可能性を示している。その場合、川中島で会戦を挑んだ為景と謙信の間で意思疎通の問題があったということになる。
厄介なことに、高原諏訪城の背後には上杉の支城である松倉城があり、高原諏訪城は完全に飛騨で孤立する形となっていた。伊武真田軍はこの城の放棄も視野に入れつつ、飛騨での戦いに臨むこととなった。

 上杉軍は、三方向から高原諏訪城を攻め、一時は完全にこの城を包囲する。しかし、真田昌輝隊やメリー隊の到着によって、高原諏訪城は解放される。むしろ逆に、葛葉隊などによって松倉城が攻められると、上杉軍は一転して守勢に回ることとなった。川中島の戦いを終えた一部の兵が飛騨に到着すると、上杉軍は撤退を開始した。このように、川中島で敗れたことと同様に、高原諏訪城の攻略に失敗したことが、この戦いの趨勢を決定づけることとなった。6月、上杉謙信隊が飛騨から撤退。伊武真田軍は信濃防衛に次いで飛騨地方でも勝利を収めたのである。

 この1年後、姉小路家の本拠である帰雲城が伊武真田家に攻略される。伊武真田と早期から同盟を結んで不戦を貫いていた姉小路も、上杉という後ろ盾を失ってあっさりと伊武真田の従属下に置かれることとなる。こうして飛騨は完全に伊武真田の手中に落ちた。

14 越州征伐

 時は遡り1926年5月、飛騨での苦戦を尻目に、伊武真田軍は越後と信濃の境界にある飯山城を陥落させる。これが、伊武真田による越州征伐の第一歩であった。

 川中島の戦いを経験した主力部隊に加え、沼田城からの軍も派遣され、信濃領の支城の一つである坂戸城攻略が始まった。6月にこれを陥落させると、次なる目標は松代城である。1927年2月、松代城を攻略した伊武真田軍に対し、上杉軍もようやく川中島の敗戦から態勢を立て直し、徹底抗戦を開始した。

 北条城をめぐる戦いは、信州征伐における最大の戦いの一つである。この直前に1万の花畑チャイカ隊を打ち破った伊武真田軍は、信濃・上野から更なる増援を受け、四方向から北条城に襲い掛かった。3か月の激戦に両軍川中島の戦い以上の兵力をつぎ込んだ結果、包囲された上杉軍は壊滅状態に陥り、8月に北条城は降伏した。これ以降、上杉軍の組織的な抵抗はほとんど見られなくなっていく。伊武真田軍は、またしても部隊を2つに分けた。そのうち1つは東進し、越後東部の支城を制圧していった。もう1つは、北条城を拠点に西進した。越州征伐最後の目標は、かつて上杉の本城であった春日山城である。

15 春日山城の戦い

 1627年8月、春日山城は真田幸村らの部隊およそ10000の兵によって包囲された。後詰の兵も十分にあり、陥落は時間の問題であった。加賀方面からの援軍も、春日山城の包囲を解くには至らなかった。11月、春日山城は陥落する。

 越州征伐最後の戦いは、上杉謙信がこの春日山城を奪回すべく出兵したことによって引き起こされた。1628年2月、花畑チャイカ隊、上杉謙信隊が春日山城までたどり着き、真田幸村隊らと交戦するが、これも退けられる。撤退途中の上杉謙信隊は、背後を突いたフレン隊らと交戦し、壊滅状態に陥り、上杉謙信は僅かな兵と従者らとともに七尾城まで辛うじて逃げ帰った。

 上杉に戦争継続能力がないことは明らかであった。春日山城の奪回は不可能であり、上杉はかつて本拠地としていた越後一国を伊武真田に奪われた。つまり、上杉は伊武真田に完全敗北を喫したのであった。

16 駿府館の戦い

 越州征伐を終えた伊武真田は、反伊達同盟の解散と共に再び今川へと目を向けた。上杉への警戒を解き、万全の状態で戦うことができる伊武真田家を妨げるものは何もなかった。1628年5月、駿府館は伊武真田軍によって包囲される。徳川も北条も、今川を助けはしなかった。今川と上杉を滅ぼした伊武真田は、現代で言う「フォッサマグナ」のようにして、己の領土を貫通させて本州を縦に真っ二つに切り裂いたのである。

 中部から関東地方において、中央の支配から独立した一勢力がこれほどの版図を誇ったことは、日本史において他に例を見ないことである。

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