伊武真田太平記 第2巻

この物語はにじさんじ所属の配信者イブラヒムさんのゲーム「信長の野望」の配信を元にしたフィクションです。基本的には配信の内容に従っていますが、一部に独自の解釈などを盛り込んでいることに留意してください。

5 山上の戦い

 1619年8月、箕輪城攻防での損耗を回復した伊武真田家は長野家の支城の攻略を開始した。厩橋城を目指して伊武真田軍が出陣すると、長野家と同盟関係にある佐竹家も平井城から軍を派遣した。平井城は長野家の支城であったが、成田家に奪われたところを佐竹家が再奪回して以降、佐竹家の上野における拠点となっていた。

 これを受け、伊武真田軍は国峯城から兵を派遣して平井城の同時攻略を開始した。厩橋城・平井城の双方で勢力的に優位にあった伊武真田軍は、10月に平井城を攻略。さらに上杉軍の支援を受け、厩橋城を陥落させるのも時間の問題であった。

 しかし、上野への影響力をみすみす失うわけにはいかない佐竹家は、本格的に長野家への支援を開始する。9月には宇都宮城からおよそ1万の兵が厩橋城を目指して出陣した。しかし、南の北条家に配慮して山道を進軍したことが、佐竹軍の戦略を大きく狂わせる。

 10月、伊武真田軍は、平井城を早期に攻略すると、厩橋城の包囲を上杉軍に完全に任せ、山上に陣を敷いた(山上の戦い)。この地点は、佐竹軍が進軍する細い山道がちょうど平野へと出る地域であり、数で勝る佐竹家を細い山道に閉じ込めつつ、自分たちは平野に広く陣を敷くことで数的優位を逆転させるのに最適な場所であった。竜胆尊、那須与一、佐竹義宣ら佐竹家の主力部隊をメリー金蓮華、真田幸村、伊武ラヒムらが迎え撃ち、戦いは伊武真田家の優位のうちに終わった。

 翌年1月には厩橋城が陥落。この一連の戦いによって、伊武真田家はほぼ完全に上野を支配し、関東平野に大きな影響力を持つこととなった。

6 武信越線の結成

 佐竹軍を撃退し、上野の大半の地域を支配下に置いた伊武真田家ではあったが、長野家の残党は依然として佐竹家の支援を受けて唐沢山城に立て籠もっていた。一方で北条家は成田家討伐に乗り出し、1620年4月には忍城を陥落せしめ、関東平野の大半を支配下に置いた。これによって、実質的に関東の勢力は上野の伊武真田家、下野・常陸の佐竹家、そして相模から武蔵、房総半島までを統治する最大勢力である北条家に三分割された。

 急速に支配域を拡大した伊武真田家には、広い支配域を統治する人材の不足という問題が生じていた。上野は信濃と違って広い田園地帯であり、信濃とは違う統治のやり方が求められていたが、それを実行できる人材は伊武真田家には少なかった。

 したがって、伊武真田家の次の目標は唐沢山城に立て籠もった長野家の諸将を捕え、配下として人材を確保することであった。しかし、下手に唐沢山城へ攻め入れば、長野家の背後にいる佐竹家は勿論、古河御所を拠点とする北条家も刺激し、戦いとなる恐れがあった。こうした状況を見極めた伊武真田家は、北条家へと接近していく。

 北条も、急速に勢力を拡大する伊武真田家の存在は無視できるものではなかった。およそ1年半に及ぶ北条との交渉が実り、1621年10月、真田幸村と北条氏康の娘・里の間に婚姻が成立した。

 伊武真田家は越後を拠点に日本海に沿って勢力を拡大する上杉家とも同盟を結んでおり、これによって相模・武蔵から上野、信濃、越後へとつながる同盟関係が成立したことになる。東国の大名に対して強烈な圧力を与えつつ西国進出を伺うこの3勢力の実質的な大同盟は「武信越線」と呼ばれる。

7 唐沢山城の戦い

 伊武真田家と北条家が同盟を結ぶ1621年10月、佐竹家は長野家との同盟を破棄し、長野家が立て籠もる唐沢山城を攻撃、包囲した(第一次唐沢山城の戦い)。伊武真田家も、北条との婚姻同盟が成立し、南関東の安全を確保すると即座に唐沢山城へと出撃した。同時に、上杉家に唐沢山城攻略の支援を要請した。

 11月には、佐竹軍が唐沢山城を包囲していた。これに対して伊武真田軍は攻撃を開始。12月までに佐竹軍の主力を打ち破り、唐沢山城を包囲した。しかし、唐沢山城は佐竹軍の拠点である壬生城や祇園城とも近く、また佐竹家と同盟関係にある伊達家からの援軍が来ていたこともあり、状況は予断を許さなかった。

 年が明けて1622年1月、伊武真田軍は、唐沢山城の包囲を後詰めの上杉軍に任せ、佐竹軍を引き付けるために祇園城へと攻めかかる動きを見せた。陽動は成功し、佐竹軍は祇園城の防衛に戦力を割いたため、唐沢山城の包囲は敵の脅威に晒されることなく進行した。1622年3月、ついに唐沢山城は陥落。長野家は実質的に伊武真田家の手で滅ぼされた。しかし、長野家の捕虜はほとんどが上杉家へと連行され、伊武真田家の目標である「上野統治の人員確保」は叶わなかった。

 兵糧が尽きた伊武真田軍は、唐沢山城陥落後すぐに帰城した。佐竹軍は、これを見ると即座に唐沢山城を奪うべく軍を派遣し、わずかな兵のみが残っていた唐沢山城を包囲した。伊武真田軍は厩橋城で補給を済ませると、部隊を2つに分け、それぞれ唐沢山城防衛と古河御所を経由しての祇園城攻めに取って返した。

 唐沢山城は伊武ラヒム率いる伊武真田軍の主力が到着するまで何とか持ちこたえ、5月には会戦で佐竹軍と一進一退の攻防を繰り広げた(第二次唐沢山城の戦い)。真田幸村らの隊が祇園城に襲い掛かると、佐竹軍の主力は唐沢山城を諦めて祇園城に引き返した(祇園の戦い)。伊武真田軍の圧力に加え、北条軍の援軍が背後を脅かし始めたことで、佐竹家には動揺が広がった。最前線では芳賀高経ら寝返る将や兵も出る有様だった。

 しかし、伊武真田軍も壬生城で睨みを利かせる伊達軍を警戒しており、また佐竹軍の強烈な抵抗もあって、祇園城攻略からは手を退かざるを得ない状況にあった。10月になると、伊武真田軍は祇園城からの撤退を開始した。しかし、唐沢山城を防衛し、佐竹軍の戦力を削いだのは十分な成果であった。

8 八王子城攻略

 唐沢山城の攻略・防衛という目標を達成した伊武真田家は、唐沢山城と箕輪城の連絡路に新田金山城を築き、対佐竹軍の守りをより強固なものにしていた。

 同時に、対武田家戦線の拠点と上野統治のための人材を確保すべく、成田家の残党が居座っている八王子城攻略計画も始まろうとしていた。この計画の実現には北条家の協力が不可欠であった。伊武真田軍は、北条領内の通行や北条家の支城での補給、更に必要に応じた兵力の派遣の確約を受け、1623年4月、八王子城の攻略を開始した。

 伊武真田軍による八王子城攻略は順調に進行し、6月には城を包囲した。翌月、八王子城は陥落し、成田家の将や家臣たちは伊武真田家に取り込まれた。しかし、伊武真田家にとってはそれどころではない事態が発生しつつあった。

 北条軍が冨士吉田城へと派遣した戦力は、伊武真田家が要求した武田軍牽制の戦力よりもはるかに大きく、主力部隊と呼ぶべきものであった。北条家が武田家との全面戦争を想定していることは明らかだった。これに合わせて、今川軍、徳川軍、姉小路軍も武田領内へ襲い掛かる。武田家にとって最後の戦いとなる甲州征伐が、諸勢力の狙いが入り乱れる形で始まった。

9 甲州征伐

 北条家の予想を超える援軍の規模に驚き、武田家が北条のみならず徳川、今川からも攻撃されていることを知った伊武真田家は、この機に乗じて甲州を制圧することを狙った。伊武真田家は信濃から南下することで甲州北部(武田家が支配する旧村上家領や武田家の本拠である躑躅ヶ崎館)に圧力を掛けられるという、他の家にはない有利を持っていた。1623年6月、信濃から伊武ラヒム率いる10000を超える大軍勢が高遠城へ向けて出陣した。

 一方、八王子城の制圧に成功した伊武真田軍の諸隊は、そのまま山道を抜けて武田軍と北条軍の激戦地である富士吉田城を目指した。迂回して八王子城を目指していた真田幸村隊は、北条領を通過して旧石田領の伊豆半島にある武田領の飛び地の制圧を目指した。

 7月には、伊武ラヒムらの軍が高遠城の葛葉隊に襲い掛かった。同時期には徳川軍が飯田城・木曽福島城といった旧村上領の城を制圧しており、武田軍は甲斐内陸部へと追い詰められつつあった。

 8月、徳川と協力していた姉小路家と伊武真田軍の間で同盟が結ばれた。これによって、伊武真田軍はいよいよ全勢力を武田討伐に向けられるようになった。姉小路軍と協力した伊武真田軍は高遠城を包囲。翌月までにこれを陥落させた。

 9月、武田軍を破って富士吉田城への入城を果たした伊武真田軍だったが、息をつく間もなく今川軍によって包囲される。諸勢力がそれぞれの思惑を抱えて戦った甲州征伐という戦いを象徴する場面であった。北条軍は既に兵を退いて佐竹家との戦いに備えつつあり、伊武真田軍の他の部隊は遠方にあるか、目の前の戦いで手一杯だった。富士吉田城の支配が三日天下に終わるかと思われた矢先、伊武真田家からの要請を受けた上杉家の仲介で、今川家と伊武真田家は停戦協定を結んだ。停戦期間は6か月であり、これは実質的に甲州をめぐる争いから今川家が脱落したことを意味していた。武信越線を構成するうちの2国と敵対することを恐れた今川家にとって、苦しいながらもやむを得ない決断であった。

 富士吉田城が伊武真田軍の手に落ちたことで、武田軍は南北を完全に包囲された。真田幸村らの部隊も伊豆半島を攻略しつつあり、武田家にとって戦況は一層苦しくなるばかりであった。これを打開すべく、武田家の盟主・武田信玄は自ら兵を率いて、富士吉田城の奪回、そして伊豆半島の防衛へと動く。

 しかし、状況は信玄の予想よりもはるかに早く動いていた。10月には韮山城が真田幸村軍に包囲され、陥落。信玄隊の南下の報を受けた真田幸村は、下田城を放置して信玄迎撃に向かった。真田幸村・幸隆隊は信玄隊と激突(興国寺の戦い)。一方、北の伊武ラヒム軍は中野城と躑躅ヶ崎館を目指して進軍を開始した。

 興国寺の戦いは終始伊武真田軍の優位で進み、武田信玄は中野城を防衛するために撤退した。しかし、10月末には伊武隊が中野城間近まで来ており、結果的に武田軍は大将である信玄の不在を突かれる形となった。

 11月には中野城の包囲が始まり、メリー金蓮華隊も沼田城から到着した。この圧倒的な兵力を前に、中野城は降伏。残る武田軍の拠点は、伊豆半島の先端にある下田城と本拠、躑躅ヶ崎館のみであった。

 12月には、伊武真田軍主力による総攻撃が躑躅ヶ崎館に向けて開始された。このころの武田信玄隊は風雲急を告げる展開に右往左往し、完全に浮いた兵力となっていた。

 1624年1月、いよいよ躑躅ヶ崎館と下田城の包囲が開始された。2月、ようやく信玄隊がほうぼうの体で躑躅ヶ崎館に到着したが、伊武真田軍の包囲を打ち破ることはできずに降伏した。3月、今川家と伊武真田家の停戦期間が切れた直後、下田城と躑躅ヶ崎館が相次いで陥落。これを以て武田家は滅び、甲斐は一部を除いて真田の支配域となった。武田と真田は、主従を入れ替える形で再び統一されたのである。

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