伊武真田太平記 第4巻

この物語はにじさんじ所属の配信者イブラヒムさんのゲーム「信長の野望」の配信を元にした軍記風二次創作です。基本的には配信内の展開に従っていますが、一部に独自の解釈などを盛り込んでいることに留意してください。

17 寛永5年の伊武真田内政

 1628年6月、伊武真田と斎藤の間に同盟が結ばれた。斎藤といえば、美濃を中心に広大な領土と人口を抱えた戦国時代中期の最大勢力である。武田に続いて今川を滅ぼし、上杉を打ち破った伊武ラヒムの名は、西の長曾我部や毛利、中央の斎藤に並ぶ戦国大名として日本中に知られることとなったのである。

 このころ、伊武真田は大規模な兵と将の配置転換を行っている。戦いがひと段落したことに加え、甲州征伐以降の急速な勢力拡大に、今川や上杉から下った将の登用がようやく追いついてきたのである。寛永5年の内政改革として知られる一連の配置転換は、伊武真田家の戦いを伝えるいくつかの史料からその全貌を確認することができる。

 伊武真田が重視していたのは、駿河の駿府館、甲斐の躑躅ヶ崎館、上野の箕輪城、信濃の葛尾城、そして越後の春日山城であるとされる。これらはいずれも各勢力の本拠であり、各国の経済と軍事の重要拠点であった。

 今川の旧本拠である駿府館には、香取アンジュ、戌亥とこ、リゼ皇女という旧今川の3人の将が配置された。今川家にとっては、戦いに敗れたとはいえ、実質的な所領安堵となった形である。同じく駿河の韮山城には、かつて直江家に仕え、その後は上杉でも活躍し知将として名高い愛園愛美と伊武ラヒムの娘・伊武華が派遣された。そのほか、下田城には福島正成が、富士吉田城には長尾政景が派遣された。

 越後の春日山城は伊武真田随一の名将・真田昌幸に任された。この城が打倒上杉の最前線となることは言うまでもない。一方、かつて直江家の本城であった新発田城には旧今川の鈴谷アキが派遣され、安田城の山神カルタと共に、伊達へと睨みを利かせることとなった。栃尾城には上杉から下った奈羅花が派遣され、越後統治を任された。

 飛騨の3つの城は、いずれも兵力こそ少ないものの、対上杉の重要拠点である。高原諏訪城には、かねてよりこの城を治めてきた馬場信春がその功績を認められ、置かれることとなった。帰雲城には真田一門で昌幸の弟・信尹が派遣された。松倉城には武田の家臣であった甲斐田晴に加え、上野から武勇に優れるフレン・タリオが送られ、上杉攻めには十分な戦力が整いつつあった。

 砥石城には葛葉レオが送られ、躑躅ヶ崎館には武田信玄が舞い戻る。沼田城には大谷吉継が派遣され、伊達や北条をけん制する役目を任された。

 こうした人事の移動によって、28年秋以降、伊武真田領の街道整備や城の改修・改築が効率的に進むようになった。伊武ラヒムは伊武真田の実質的な当主でありながら、街道の整備などには「俺がやります」と言って直々に乗り出したことでも有名だが、実際にそのような姿が見られたのはこの時期までであっただろう。各地に信頼できる将を置いたことで、伊武自らが各地へ向かうことは少なくなったことが、史料からも伝わっている。

18 第2次越州征伐

 1628年9月、斎藤の朝倉攻めに呼応するように、伊武真田軍は上杉攻めを開始する。内政改革後から、上杉の滅亡までの伊武真田(および斎藤)による一連の戦いを、川中島の戦いから春日山城の戦いまでの一連の戦いと区別するために、「第2次」越州征伐と呼ぶ。しかし実際には、戦いは越州のみならず加賀・能登・佐渡島など広範囲に及んでいる。

 伊武真田はこの戦いで上杉を滅ぼすという覚悟を決していた。それは真田幸村隊1万2000を筆頭に、伊武真田軍の主力部隊が惜しむことなく派遣されたことに見て取れる。

 はじめに、真田昌幸率いる春日山城の部隊が魚津城の東で上杉と激突した。上杉は富山城からの援軍をここにぶつけたが、その隙を突くように、高原諏訪城で合流した伊武真田の別動隊が魚津城を襲い掛かる構えを見せたため、双方の動きは停滞した。それでも10月には、富山城へ向けて3万の伊武真田軍が襲来する。

 さらに、フレン隊が福光城周辺で勝利を収めると、戦いはいよいよ上杉領全域に及んだ。上杉謙信も出陣し、山本勘助を打ち破るなど、戦況は一進一退の様相を呈していた。しかし、魚津城近辺の戦いに伊武真田が勝利を収めたことで、上杉軍の戦意は一気に削がれてしまう。

 12月には福光城がメリー隊によって攻略され、その情報を受けた富山城も降伏する。伊武真田は前線に補給拠点を確保し、万全の態勢で能登半島に攻め入ることができるようになった。

 翌1629年1月、補給を整えた伊武真田軍は越中で魚津城の包囲、加賀で高岡城と尾山城の包囲を行っていた。この時既に、朝倉を打倒した斎藤が大聖寺城へと攻めかかっており、上杉の敗勢はいよいよ濃厚となっていった。

 2月には魚津城、尾山城、高尾城を陥落させ、伊武真田軍は上杉の現本拠・七尾城に王手をかける。さらに、越後から佐渡島への出兵も始まった。余談ではあるが、この佐渡出兵は伊武真田家にとっての初めての海を越えての戦いであった。

 3月に七尾城が陥落すると、能登半島の先端部に位置する宅田城、そして松波城もあっさりと陥落した。さしたる抵抗もなく、越後の龍の最後は実にあっけないものであったと、伊武真田の将は世の無常に涙したとも言われる。

 14年前、独立したばかりの伊武真田に襲い掛かった上杉は、伊武真田にとって長らく尊敬と畏怖の対象であり続けた。一時は伊武真田と同盟を結び、日本海に沿ってその勢力を拡大した上杉家だが、上洛の夢は叶わぬままに1629年6月、その歴史に幕を下ろすこととなった。

19 北条の失敗

 遡ってみれば、川中島の戦いにおける伊武真田の完全勝利は、上杉と同時に北条にとっても衝撃的な知らせであった。

 対伊達連合の形成に象徴されるように、北条の目標は伊達を打ち破ると同時に、伊武真田と上杉を対立させることで漁夫の利を得ることにあった。両者の戦いが長引けば長引くほど、伊武真田が疲弊すればするほど、北条にとっては自由に動くチャンスが生まれるはずだったのである。

 にもかかわらず、上杉は短期決戦を挑み、伊武真田は見事にそれを返り討ちにしてしまった。伊武真田は瞬く間に越後を征伐し、疲弊どころか力を強めてしまったのである。

 北条は苦悩した。伊武真田とは同盟関係にあるとはいえ、このままでは関東平野に閉じ込められて飼い殺しにされてしまう未来が目に見えていた。さらに、伊武真田は伊達や斎藤にも接近しており、北条の立場そのものも怪しくなっていたのである。

 北条はここで徳川攻めという禁断の手を打つことになる。伊武真田が第二次越州征伐で疲弊している隙に徳川を抑えることで、自身の勢力と東国での存在感をアピールしようとしたのだ、というのが通説である。北条の親伊武真田派と反伊武真田派の対立の中で、後者が暴走したのだ、との説もあるが、出陣した兵力の多さや進軍の周到さ、そして斎藤への根回しが行われていたことから、あくまでも徳川攻めは北条の総意であったとされる。

 しかし、この徳川攻めは完全に裏目に出る。そもそも、伊武真田は徳川と同盟を結んでおり、それがある以上は徳川攻めに乗り出すことはできない。伊武真田にとっては目の前で鳶に油揚げをさらわれるようなものなのである。それに、上杉攻めという成果を出した伊武真田に対して、北条はかねてより仮想敵であった伊達に対して、征服どころか未だに有効打一つ打てていないのである。他の諸勢力から見れば、東国において伊武真田こそ最大勢力であるという事実は、北条の徳川攻め如何で揺らぐようなものではなかった。

 結局のところ、北条は気づかぬうちに分岐路を過ぎ去ってしまっていたのである。それは、上杉とともに伊武真田を攻めなかったことかもしれない。あるいは、伊達を攻略し損なったことか。はたまた、伊武真田に甲州征伐の手柄をほとんど奪われてしまったことだったか。

 早期に関東平野を制圧し、統治体制を盤石に整えた北条であったが、それゆえに組織が硬直し、安定志向へと走ってしまった。関東という一地域に満足し、一国を統一するという発想を持てなかったために、全国へと目を向ける機会を逸し続けてきたのである。とはいえ、そうした背景があっても尚、徳川攻めという禁断の一手は、北条にとって逆転の一手ではなく、むしろ致命的な失敗であった。

20 東海制圧

 徳川が支配する三河・遠江は東海道の重要拠点であり、その立地の重要性もあって、徳川はこれまで辛うじて独立を保っていた。しかし、北条がここに手を出したことで、その独立も危うくなってきていた。

 1629年11月、伊武真田は軍を徳川領に向けて各地から進発させる。北条と伊武真田の連合という形での戦争ではあるが、甲州征伐同様、実質的には北条と伊武真田による勢力拡張競争でしかなかった。北条と伊武真田の兵が戦場で徳川を無視して小競り合いを起こした、という話もいくつか伝わっているほどである。

 翌1630年2月までに伊武真田は犬居城、掛川城などを早期に攻略し、北からの補給線を確保した。しかし、小山城などの攻略では北条との間で対立したこともあって、主力部隊が派遣された東海道近辺での戦いは比較的落ち着いた速度で進んでいた。

 ところが翌3月、事態は一気に加速する。伊武真田軍が長篠城に加え、浜松城という徳川の重要拠点を想定よりもはるかに早く降伏させ、遠江全域の攻略に成功したのである。甲州征伐以来、戦い慣れした伊武真田軍の猛烈な勢いに、徳川は圧倒され、北条はついてくることができなかった。

 三河攻略に際しては、斎藤の協力を受けた竜胆尊隊が安祥城を攻略したが、それより先に伊武真田軍の精鋭は刈谷城、岡崎城へと兵を進めていた。最後に残った岡崎城のみが頑強に抵抗したが、支城を全て丸裸にされた徳川に救いの手を差し伸べる者はなかった。真田幸村が岡崎城に入城したのは1630年5月のことである。

 徳川を滅ぼし、東海を制圧した伊武真田は、これで斎藤と本格的に接触することとなった。ただし、斎藤には毛利や長曾我部といった強敵が立ちふさがっており、東国へと目を向ける余裕はまだなかった。そして伊武真田もまた、北条という厄介な「敵」を抱えていたのだった。

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