伊武真田太平記 第6巻

 この物語はにじさんじ所属の配信者イブラヒムさんのゲーム「信長の野望」の配信を元にしたフィクションです。基本的には配信の内容に従っていますが、一部に独自の解釈などを盛り込んでいることに留意してください。

23  軍団創設

 北条を滅ぼしたことで、伊武真田は人口、兵力、石高などあらゆる面で日本一の勢力となった。伊武真田と直接面する勢力は、北の伊達、西の斎藤の両家であるが、伊武真田はこのいずれとも同盟を組んでおり、即座に戦となることは考えにくかった。特に斎藤家は、四国から中国・近畿へと勢力を広げる長曾我部にも兵を割かねばならず、実質的にはこのころに伊武真田の一強体制が確立していたと考えられる。

 伊武真田は、旧北条領の東部、房総半島および常陸を徳川家康に、旧上杉領の越前越後を真田昌幸に任せる軍団制を導入する。伊武真田の主力を担う将は斎藤との戦いのために西へ送られ、二線級の将を歴戦の兵が支えるというのが新設された軍団における構図であった。

 伊達はこうした伊武真田軍の再編を見逃さなかった。手をこまねいて北条と同じ轍を踏むわけにはいかないとばかりに、1632年1月、飯野平城を目指して伊達の兵が押し寄せる。伊武真田は世間に向けてこれを厳しく糾弾し、徳川家康軍団に徹底した奥州征伐を命じた。

24 奥州征伐

 太平洋に面する場所に位置する伊武真田領最東端の城・飯野平城で起きた戦いは、たちまち各地に拡大した。2月には関東から奥州への入り口にあたる小峰城に本田忠勝隊が押し寄せ、伊達と激戦を繰り広げる。さらに、越後の真田昌幸軍団も伊達家攻略に兵を割いたことで、伊武真田と伊達の全面戦争という構図は確定的となったのである。

 両軍団による戦いは表面上では円滑に進行していたが、その危うさを物語る事例がいくつかある。例えば、真田昌幸軍団は越後からの山道で立ち往生し、戦力を逐次投入することになってしまい、目標の城を落とせずに撤退に追い込まれた。一方の徳川家康軍団は、攻め落とした城を足掛かりとして攻め入るという伊武真田の従来の戦略への理解度が低く、不要な兵糧の補給のために城へ戻ってしまうという事例も見られた。

 とはいえ、こうした将の能力不足は、軍団を率いる徳川家康、真田昌幸の経験や歴戦の兵の実力によって何とかカバーされた。1632年の夏を迎えるころには、伊達は戦線を大きく引き下げて、防衛に専念しなければならないような状況に陥っていた。そんな伊達に一縷の望みが見えたのは、ちょうどそのころのことであった。

25 斎藤の宣戦

 1632年8月、伊武真田との同盟が切れたタイミングで、西から斎藤が伊武真田に襲い掛かった。伊武真田は斎藤の動向を観察していたが、長曾我部との戦いの直後に、伊武真田方面に出兵するというのは予想外の動きだった。斎藤にとって伊武真田に二正面作戦を強いることができるというのは、ハイリスクではあったがハイリターンも期待できる考え方だった。

 とはいえ、伊武真田が主力となる将を伊達方面に割いていないのは幸運なことでもあった。情報を得た伊武真田軍は、すぐに伊武ラヒム直下の戦力を斎藤方面に割いた。最初の戦いの舞台は、加賀、南信濃、そして両軍が大戦力をつぎ込んだ三河である。

 三河での戦いは一進一退だったが、百戦錬磨のフレン隊が到着すると、戦況は伊武真田有利に大きく傾いた。南信濃でも、メリー隊、武田信玄隊などが斎藤を迎え撃った。しかしこの方面では、伊武ラヒムのお気に入りの部下である三枝明那が山中で挟撃されて撤退に追い込まれたり、斎藤道三隊によって伊武真田軍の攻城が崩されたりと、斎藤に有利な展開となっていた。

 一方の奥州戦線も、特に徳川家康軍団の働きが大きく、攻略は順調に進んでいた。特に飯野平城から太平洋に沿って北上する進路を徳川家康直属の軍が驚くべき速度で進んだことは特筆に値する。

 さて、伊武真田にとっては山中での戦いで苦戦する展開が続き、伊武ラヒム隊も一時退却に追い込まれた。しかし、真田幸村隊の到来によって、そうした苦境に改善の兆しが見られるようになっていった。だが何よりも伊武真田を励ましたのは、三河の防衛に完勝したことであり、那古野城や清州城、犬山城といった尾張にある斎藤の重要拠点に圧をかけることができたことである。この辺りの城が落ちれば、中部山中での斎藤は補給を絶たれ、撤退することとなる。その後は伊武真田の本体と合流し、畿内に乗り込むというのが伊武真田の描くシナリオだった。

 伊武真田にとっては意外なことだが、尾張の城の守りは脆弱であった。それもそのはずで、斎藤にとっては伊武真田攻めの序盤では三河や遠江まで攻め入ることが前提となっており、この方面で防衛戦を強いられることはそもそも想定外のことであったのだ。無論これは、斎藤が見積もっていた以上に、伊武真田の軍事的対応力が秀でているということである。

 1633年1月には、名前を挙げた尾張の3つの城はいずれもさしたる抵抗を見せずに陥落した。伊武真田の主力は、勢いそのままに斎藤の本拠、稲葉山城に襲い掛かった。2月、斎藤道三隊が武田信玄隊に敗れ、稲葉山城の包囲が始まった。4月上旬、稲葉山城が陥落するころには、上杉謙信らの隊が南から畿内へと乗り込もうとしていた。

26 修羅の道

 伊武真田は、主力となる尾張の軍を2手に分けた。一方は南から迂回して霧山御所を足掛かりに大和・河内を攻める部隊。もう一方は、琵琶湖周辺に展開し、鎌刃城・佐和山城を狙う部隊であり、こちらにはフレンや幸村といった歴戦の将が配置され、兵力もより大きいものであった。

 1633年の春から秋にかけて、この後者と斎藤の精鋭部隊がぶつかったのが「佐和山・鎌刃の戦い」である。琵琶湖南東の佐和山城近辺での戦いを中心に、琵琶湖周辺で起きた数か月に及ぶ一連の戦闘がこのように呼称される。この戦いで、伊武真田は多くの損害を受けつつも前進を続けた。尾張に入城した将が援軍を率いて参戦したこともあり、数と質で攻めかかる斎藤に対して、それ以上の継戦能力と破壊力で向き合ったのである。その結果、10月には斎藤は撤退し、伊武真田軍が佐和山城の包囲を開始した。

 佐和山・鎌刃の戦いは、その戦いの規模の大きさに加え、伊武真田軍の畿内制圧の大きな一歩となったことで重要視されている。他方で、近江方面での敗北が無かったとしても、斎藤の敗戦は揺るがなかったという見方もある。だがいずれにせよ、この敗北によって斎藤が滅亡への道を転がり落ちる速度は一気に早まったことは間違いない。

 斎藤は伊武真田の予想外の強さに恐れおののき、同時に徹底抗戦を決意する。佐和山近辺での戦いの最中、1633年8月に伊武真田を標的にした「対伊武真田同盟」が結成される。斎藤を盟主に、伊達、長曾我部、南部、鈴木、本願寺の6勢力が連合したのである。琵琶湖北、清水山城を攻める最中にその情報を得た伊武ラヒムは笑ってこう言ったという。

 「では修羅の道だな」

27 上洛

 1633年10月、伊武真田軍は駿府館のリゼ・ヘルエスタに甲州から美濃・尾張までの西方方面軍団を一任する。これで伊武真田軍領はほとんどが3つの軍団によって統治されることとなり、斎藤攻めもこのヘルエスタ軍団に任せられた。

 佐和山城の陥落を機に、近江の城は一気に伊武真田の手に落ちていった。その速度は、斎藤攻めの主体が伊武ラヒムからヘルエスタ軍団へと移っても変わらなかった。徳川家康軍も順調に奥州を攻略しており、伊武真田の二正面作戦は極めて順調に進んだのである。

 1933年末、斎藤が観音寺城の防衛に兵を割いている隙を見て、伊武ラヒム隊は二条御所へと攻め入る。上杉謙信隊も合流し、2月には二条御所の包囲が始まった。この知らせは斎藤の士気に決定的な打撃を与えた。軍からは逃亡する兵が相次ぎ、畿内の城は容易に伊武真田に下った。二条御所は2月中旬に陥落し、伊武真田は上洛を果たしたのである。

 1633年から34年にかけて、伊武真田軍は斎藤の最後の拠点・大阪城目掛けて次々と城を落としていった。新設された畿内の海老アルビオ軍団が、河内攻めの最終盤で著しい戦果を挙げたのである。

 1634年5月、伊武真田は本拠を二条御所に移した。伊武ラヒムの目は、対斎藤からその後の天下統一へと移りつつあった。8月、大阪城は支城のいくつかを残した状況で降伏した。斎藤のわずかな将は支城へと逃れており、長曾我部へとなりふり構わず援軍を求めた。これに応えた長曾我部は、即座に畿内へと援軍を派遣した。これ以降、戦いの舞台は西へと移っていく。伊武真田にとって、長い長い天下統一への道のりは、終盤に差し掛かっていた。

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