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和泉愛依の中動態

はじめに

 あなたは【メイ・ビー】和泉愛依のコミュを読み、Trueまでたどり着いただろうか。
 ストレイライトにとって2周目となるP-SSRの口火を切る形で実装された【メイ・ビー】和泉愛依。刺激的なコンセプトの絵が多くの人にインパクトを与えたことは間違いないが、そのコミュもまた素晴らしいものだった。

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 私も今回の【メイ・ビー】のコミュを読んだ一人で、それによって和泉愛依への思いを一層深めることとなった。そしてこのカードの実装を良い機会と考え、少し前から温めていた和泉愛依についての文章を記すことにする。
 キーワードは「中動態」。古代ギリシア語やサンスクリット語に存在した、能動でも受動でもない第3の態。2000年前の言語的遺物。それがどうしてギャルの名産地・埼玉出身の彼女と結びつくのか、と訝しむのはあなたの自然な感情だ。だが私は、アイドルとしての和泉愛依を表すのに「中動態」という言葉以上に適切なものを知らない。
 和泉愛依は中動態である。まずは、「それが何であるか」を示さなければならない。そしてそのあとに、「何が彼女を中動態たらしめているのか」、更に「彼女が中動態であるべき理由は何か」を説明したい。というのも、「何かがこうである」という言説には、「こうである」という論拠と同時に「こうであってほしい」という祈りが伴うべきだと私は考えているから。

 一つ述べておくと、この文章は【メイ・ビー】和泉愛依のカードを持っていなくても(つまりコミュを読んでいなくても)十分に読み進めることができる。ただ、やはりその内容を知っていた方が、私の意図も伝わりやすいし内容も分かりやすいと思う。ピックアップ期間は過ぎてしまったが、恒常ガチャから入手可能なので、決して高いとは言えない確率に挑戦してみてもいいかもしれない。


1 中動態

 私たちは「する」と「される」の世界に生きている。前者のことを能動であり、後者を受動と呼ぶ。
 中学の英語の授業で「受動態」が扱われるように、これは日本語に特別なものではない。多分、ロシア語にもフランス語にもイタリア語にもドイツ語にも中国語にも韓国語にもあるはずだ。21世紀の世界のどこにおいても、それは絶対的な規則であるように思われる。
 ところが、2000年ほど前の人々は、もう1つの態を持っていた。それが中動態と呼ばれるもので、古典ギリシア語やサンスクリット語の文献に(珍しくない数)出現する。
 もちろんこれは2000年も昔の話。中動態がどういうものだったのか、それを知らない世界で育った私たちが理解するのは極めて困難だ。だが、現代に伝わる様々な文献から逆算するかのようにその正体を探ることは可能で、言語学を中心にその研究は行われてきた。
 例えば、田中美知太郎・松平千秋著『ギリシア語入門』において、中動態は次のように説明される。

 中動相(中動態)はある意味においてその名称の示すように、能動相と受動相との間の中間的な機能をもつ相(態)であると言えるが、その本来の意義はむしろ能動相である。ただ中動相には能動相の場合に比べて、動詞の表わす動作がその主語に対して何か特別に深い関係をもっている場合が多い。

 つまり、ある動詞が(単語自体は同じまま、語尾などを変化させて)能動の形から中動の形に変わることで、動詞の持つニュアンスが特殊なものに変化するのだ。例えば、
・「自分の為に…する」:能動が「ある人のところへ使いをやる」なのに対して、中動では「使いをやって人を自分のところへ呼び寄せる」
・「再帰的」:能動が単に「洗う」なのに対して、中動では「自分の身体を洗う、入浴する」
・「相互的」:能動が「分配する」なのに対して、中動では「(我々が)互いに分かち合う」
というように。

 この言語学的に重要な、しかし現代人にはほとんど無関係だと思われてきた問題に、社会学的な面から光を当てたのが國分功一郎著『中動態の世界:意志と責任の考古学』だ。
 「する」と「される」の二分が当たり前の価値観を疑い、私たちの「意志」と「責任」の考え方が本当に正しいのかどうかを問い直すこの著作で、國分氏は中動態の歴史的背景を考察し、一つの結論に至った。現代の「能動と受動」という対立より先に「能動と中動」という対立があったというのだ。
 「能動と中動」の対立は「能動と受動」の対立とは何が違うのだろうか。國分氏の考えはこうだ。

 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。
 すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

 ただ注意すべきなのは、國分氏が中動態の再考を呼び掛けると同時に、中動態の過度な神秘化を危惧してもいる点だ。私たちが「中動態が特殊なものである」と考えれば考えるほど、現代の私たちは能動と受動の対立を一層強固にしてしまう。そうなってしまっては意志や責任の考え方を冷静に顧みることは不可能となってしまうのだ。

 以上が、今回鍵となる「中動態」についての簡単な解説である。これだけ偉そうに並べ立てておいてなんだが、私も「中動態とは何であるか」と聞かれると「うーん、よー分からん」と答えてしまいたくなる。
 取り急ぎ、この後の主張に関わってくる要素を簡単におさらいする。

a 中動態とは、昔の言葉に存在した、能動でもない受動でもない第3の態である。
b 中動態は多くの場合、主語が過程の内にある状況を表すのに使われた。
c 中動態は、能動と受動の対立からは浮いているが、かといって中動態を過度に神秘的なものだとみなすと、逆に能動と受動の概念に囚われてしまう危険もある。

2 和泉愛依が中動態である訳

 なぜ私は、和泉愛依が中動態だと思うのか。答えは「彼女が抱える問題が中動的だから」である。

 一見すると、和泉愛依はミステリアスキャラを強いられているかのようである。強いられている、というのは受動で、それは自由人のあり方としてふさわしくない。【メイ・ビー】で愛依の友人は(誤解があったとはいえ)鋭いところを突いた。ーーアイドル・和泉愛依に人権はあるのか?これは和泉愛依に限らず、アイドルという職業一般に対する問題提起でもある。
 今の和泉愛依は、決して自分に不満を抱いてはいない。だが、アイドルとしての彼女のキャラクターが、積極的な意志によって選ばれたものでないことも事実だ。
 では、W.I.N.G編でのプロデューサーは、和泉愛依に「ありのままを曝け出せばいい」と言うべきだったのだろうか?もしも彼がもう少し無責任だったら、そう言ったかもしれない。だが、シャニマスのプロデューサーはそれで何とかなるような都合のいい世界には生きていないし、そんなことを言うほど無責任でもない(注1)。
 和泉愛依のミステリアスキャラは、苦肉の策・その場しのぎだった。ところが、その苦肉の策は当人の尽力によって見事に成功し、皮肉にもアイドル和泉愛依の方向を決めさえしてしまった。そして、それによって新しい問題が生まれたことを、シャニマスは見逃さなかった。
 【メイ・ビー】は、この新しい問題に切り込んでいて、だから極めて重要なカードである。
 繰り返すが、機会があれば、いや機会がないなら無理に作ってでも、このカードを入手してコミュを読んでもらいたい。和泉愛依の問題が、あがり症をめぐるアレコレの域をとうに越え、「どのようなアイドルであるべきか」「彼女の負担をどう和らげるべきか」という段階へ至っていることが改めて実感できるだろう。

 この問題が複雑なのは、これが能動と受動に二分される世界では扱えない問題、つまり「意志」とか「責任」の所在を追及できない問題だからである(注2)。
 例えば、彼女はステージ上で極度にあがってしまう。しかしこれは、彼女が自発的にやっている(能動)訳でも、誰かにそうされている(受動)訳でもない。
 また、その打開策としてのミステリアスキャラも、たしかに彼女の積極的な選択の結果(能動)ではなかったが、かといって誰かに強制された(受動)のでもない。
 こうして和泉愛依は、責任の所在が曖昧な問題の中でもがいている。もしかすると、アイドルとは人生とはそういうもので、誰もが似たような苦しみを味わっている、ということの一例に過ぎないのかもしれない。だが、そのことがプロデュースの中で強く打ち出されているという意味で、和泉愛依は特殊である(注3)。
 コミュを読め、と言った口ですぐにネタバレをするのは悪いが、結局【メイ・ビー】で問題に対する明確な回答は示されない。TrueEndで和泉愛依は一つの決意を固めるが、それがプロデューサーに届いているかも定かではない。大きな問題が示され、根本的な解決を見ない。だから、和泉愛依の今後は、また別の機会に語られるのだろう。
 繰り返すが、この問題には責任の所在がないのだ。問題の解決には責任者が誰であるかを明らかにすることが不可欠であるにも関わらず。したがって、この問題の解決は極めて困難であり、和泉愛依の進む道は険しい。
 和泉愛依の物語は、彼女自身が思っているよりもずっと根深い。この複雑さこそが中動態であり、その中でもがいている和泉愛依も中動態である。


3 和泉愛依が中動態であるべき訳

 和泉愛依が中動態である。私がどういう考えでそう解釈したかについてここまで述べた。次に私は、和泉愛依にそうあってほしいと願う、祈る理由について述べたい。それは、彼女を取り巻く環境ーーストレイライトの特性と関係がある。

 和泉愛依の所属するユニット『ストレイライト』には、彼女に負けず劣らず特徴的で魅力的なアイドルが2人いる。芹沢あさひと黛冬優子。
 この2人の鮮烈なコントラストに光を当て、「その対照が絶望的なほどに深くとも、その深さ自体に絶望する必要はない」と肯定したのが、ストレイライトが主役となった最初のイベントシナリオ『Straylight.run()』だった。
 このイベントシナリオについては当時の私がまとめた(グダグダな)所感がこちらにあるので、興味があれば読んでもらいたい。要点は次の通りだ。

・「黛冬優子の背後へのカメラの固定」 予告からシナリオ最序盤までの時点で、プレイヤーが黛冬優子の側から物語を楽しむように、巧みな誘導が行われていたこと。
・「能動と受動」 黛と芹沢のアイドルとしてのあり方をめぐる対立軸が序盤の時点で既に強固なものとして紹介され、それがシナリオにおいては最後まで核とされていたこと。
・「和泉愛依の浮遊」 その強烈な軸の固定の後に登場する和泉名は、そのためにどこか浮遊した、言い換えれば自由なサポーターとしてシナリオの随所で役割を果たす、ということ。

 このシナリオは素晴らしいものだったが、和泉愛依という個人に焦点を絞った場合、決して多くが描かれている訳ではない(つまり彼女の物語が時間をかけてより深く掘り下げられていく)ことに注意する必要があった。

 次にストレイライトの物語が描かれたのは、2019年夏に公開された感謝祭編においてのことだった。
 このシナリオでは、芹沢あさひが彼女の特性ゆえに意図せず招いてしまった(だが、これもある意味では「いつか訪れるはずだった」)失敗を描き、その上でストレイライトが新たな一歩を踏み出す過程が描かれている。
 和泉愛依の動向のみに注目すれば、この感謝祭編のシナリオには『Straylight.run()』より大きな意味があると言えるだろう。感謝祭編の最後で、和泉愛依は自らの甘さを認め、「芹沢と黛という2人に追いつく」という目標を立てた。

 その後のイベントの内容は、どれも良いシナリオではあったが、和泉愛依の立場を大きく揺るがすものではなかった(注4)。だから感謝祭編における和泉愛依のあり方が、「最新」の彼女であると理解していいだろう。
 今、和泉愛依は芹沢と黛を自分より先にいる存在としてリスペクトしている。ところで、この両者は全く対照的だ。芹沢が能動的な、人に自分を見せる(魅せる)アイドルであるなら、黛は受動的な、人にどのように見られているかを意識し続けることで「魅られる」アイドル。
 つまり、全く違う「理想のアイドル」が2パターンも和泉愛依の最寄りに存在しているのだ。これは和泉愛依にとっての運と災難だ。2人は技術的に秀でているだけではなく、自分がどのようなアイドルでありたいかという指向の強さ、アイドルとしての意識がこれまで彼女たちが培ってきた生き方と通じ合っている。これは、アイドルであるために自分の経験したことのないキャラクターを纏わなければならなかった和泉愛依と対照的である。
 つまり、悔しいが、スタートラインが違うことを認めなければならない。これほど強い能動と受動がいるユニットで、それと真正面からぶつかるなんて悪手でしかない。
 それを認めた上で、だからこそ私は提案したい。和泉愛依に、中動を行かないか、と。
 和泉愛依は「私があなたを魅せる」の論理でも「私があなたに魅られる」の論理でもない、「私が私を魅せる」という論理の世界で、のびのびとアイドルをやっていけばいい。これは強力なライバルとの差別化であると同時に、和泉愛依自身の肯定だ。
 実は最初からそうだったのだ。アイドルを諦めたくないと思って仮面を被ることを選んだ時もからずっと、和泉愛依は自分と向き合い、「自分のために」何かを選んできた。それは、その時は仕方のない選択だったかもしれないが、これからはそれを改めて武器とすることができる。
 
 ストレイライト内には受動と能動の強烈な対立軸が存在する。この芹沢と黛に追いつき、追い越すことは容易ではない。だが、アイドルとしての和泉愛依には、「自分が、自分を見据えながら、自分のために」戦ってきた経験がある。それを生かせば、彼女は中動的なアイドルとして、その対立軸を飛び越えた世界で戦えるかもしれない。そしてそのことは、芹沢や黛のあり方に何かしらの影響を与えるかもしれない。
 だから私は、和泉愛依に自分のためにアイドルをしてほしい。ストレイライトが競い合い、さらなる高みを目指すため、和泉愛依にはその道を選びとってほしい。

おわりに

 和泉愛依は、責任なき問題の中で足掻いている。だがその生き方は、能動・受動に二分される論理を超えたところに彼女を導くかもしれない。だから、私は和泉愛依に中動態の夢を見ている。以上が私の伝えたかったことだ。

 もう少し丁寧に言葉を重ねたかった、というのが正直な感想だが、これ以上の記述は私の能力的に不可能だと思うので断念する。それでも、書きたいことはほぼ書けたので満足している。

 ここまで読んでくれた方には、私がどれほどひねくれた人間かがよく伝わったことだろう。だが、どれほどひねくれていようと、私が本気でこの文章を書いたのは本当だし、和泉愛依の進む道が中動態であればいいと願っているのも事実だ。だが、仮にそうでなくても、失望したりすることはないから安心してほしい。和泉愛依はいつだって素敵なアイドルだ。
 それより、この文章を構成している私の思いや考えが、幾つかでも読者の心に突き刺さってくれたかどうか、そして「和泉愛依についてコイツが言ってたことが本当か確かめてやろうじゃねぇか」と思ってくれたかどうかのほうが重要である。ぜひ、確かめて、そして思ったことがあれば伝えてもらえると嬉しい。
 國分功一郎氏の『中動態の世界』は非常に面白い著作なので、興味があればぜひ読んでいただけると、私としても嬉しい限りである。

注1:直近のアルストロメリアのイベントコミュ『薄桃色にこんがらがって』からもそのことは見て取れる。

注2:和泉愛依に限らず、シャニマスはそうした問題をコミュの主題として置く傾向があるのではないか、というのはゲーム内の様々なところから感じられる。

注3:八宮めぐるをここに並べるかどうか大いに悩んだことを述べておく。

注4:とはいえ、そうしたイベントの中で和泉愛依のキャラクターの扱いが(当人にとっても周囲にとっても)難しかったことは印象的である。

参考文献

田中美知太郎・松平千秋著『ギリシア語入門』2017年、岩波書店

國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』2017年、医学書院

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