伊武真田太平記 第5巻

この物語はにじさんじ所属の配信者イブラヒムさんのゲーム「信長の野望」の配信を元にしたフィクションです。基本的には配信の内容に従っていますが、一部に独自の解釈などを盛り込んでいることに留意してください。

21 北条攻めへ

 伊武真田が見せた関東攻めの最初の兆候は秩父への築城であった。これにあたって伊武真田は「上野と八王子城の中継地点に城を築く」という大義名分を掲げていた。勿論、実際には対北条の拠点とすると同時に、甲斐から関東平野を目指す部隊の補給地点とするつもりだったのである。

 北条は、表面上は伊武真田と強調しつつも、来るべき決戦に備えて兵力を蓄えていた。いくら兵力では劣るとはいえ、戦いが長引けば伊達や斎藤と手を組んで伊武真田に一泡吹かせることは十分に可能だと考えていた。

 1630年の秋、伊武真田内部で再び大規模な武将の配置転換が行われた。その目的は旧徳川領の各城の統治体制を整えること、そして対北条の前線となる城に有力な武将を置くことであった。

 北条は、関東平野以外にもいくつかの城を保有していたが、その管理は関東の北条家ではなく各城の城主に一任されていた。両者の連携は不十分で、事実伊武真田は北条攻めの緒戦でこれらの城を落とすこととなる。

 1630年10月、北陸・飛騨・信濃などからの遠征軍が進発した。最初の目標は、信濃南部の木曽福島城・飯田城、三河の安祥城、そして遠江の小山城である。

22 関東平定

 伊武真田軍の中で最初に活躍したのは、北条の飛び地を狙って出陣した各地からの遠征軍だった。11月に同盟が破棄された直後から、各地で北条との戦闘が発生した。

 一方、関東平野での最初の戦いは北条側によって主導された。北条は4万近い兵力で唐沢山城を攻めた。東部の伊武真田の飛び地を分断してから攻略することで、常陸方面の安全を確保しようとしたのである。これに対し、伊武真田は徳川家康を太田城に派遣するなど、常陸の守りに徹しつつ、西方での遠征軍の転進を待った。

 11月には三河・遠江で安祥城と小山城が陥落する。北条は唐沢山城で一時的に兵数差で有利となったが、伊武真田と同盟した伊達からの援軍や越後からの遠征軍の到来に振り回されて各地に兵を割かざるを得なかった。このために常陸の各所で伊武真田に対して数的不利の構造を作ってしまったのである。もし、辺境の城を諦め、唐沢山城の攻略に専念していれば、戦争は北条の望み通り長期戦にもつれこんでいたかもしれない。しかし実際には、1631年を迎えるころには既に、祇園城や小田原城周辺で伊武真田が優勢に立っていた。

 1月、東では祇園城が真田親子の手によって陥落し、西では本拠である小田原城の包囲が始まった。信濃の木曽福島城・飯田城も陥落し、北条は完全に関東平野に封じられることとなった。2月には常陸の大田原城も陥落しており、古河御所もさしたる抵抗なく降伏した。2月中旬、宇都宮城が落ちたことで常陸は完全に伊武真田に制圧された。

 伊武真田による城攻めの結末は、ほとんどが攻略というより降伏に近いものだった。小田原や古河御所といった北条の重要拠点が早期にあっさりと陥落したり包囲されたりしたことで、支城の兵の士気は格段に下がっていた。何より、甲州征伐や越州征伐を経験した伊武真田の軍は北条の軍よりも格段に高い質を維持していた。行軍速度や戦場での統率力は、関東で兵を持て余していた北条にとってはにわかには信じ難いものだった。

 4月、江戸城が陥落したことを以て北条は組織的な抵抗力を失った。関東平野の城はほとんどが伊武真田の手に落ち、悲壮な覚悟で最後まで戦うことを決意した将兵は房総半島に残された支城に逃れた。6月、房総半島の東部に残された北条最後の城・万喜城が陥落した。伊武真田の将は、関東で少なくとも2年は戦うことを覚悟して北条攻めに臨んだという。ところが蓋を開けてみれば、北条滅亡に要した時間は僅かに8か月。あまりにもあっけない、関東の雄の最期だった。

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