血液検査に悪戦苦闘

 電子カルテの運用初日、最初の電話から謎だった「しゅそでてへんよ」シュソって何ですか?「いや、あのね、出てへんのはタイトルやねん」
 患者としてクリニックに行くと「どうしました?」と訊かれる。「主訴は?」とは訊かれない。主訴はカルテに記載する。カルテを印刷したとき「主訴」というタイトルが印字されない、というのが、この問い合わせの主訴だった。
 プライドを捨て、新人として取り組む覚悟だが、五十六歳である。相手が新人と思ってくれない。この電話も、呆れて切られてしまった。それでも喰らいついていくしかない。
 健康診断で血液検査をやるが、結果は数週間もしてから送られてくる。「LDL高め」など、まあ生死に関係ない。一方、病院では、搬送されてきた急患をすぐ検査する。生死に関わるから搬送されてきた。だから、救急病院には自前の検査室がある。
 健康診断でやるような一般的な検査なら、冷蔵庫ほどの機械でできるらしい。しかし、在宅医療では広範な検査が必要になる。高齢の患者は様々な病気を抱えている。そして、検査の件数は病院ほど多いわけではない。そこで、検査会社に委託することになる。
 検査会社は毎日クリニックを回り、血を集めている。見た目はヤクルトおばさんやバイク便のお兄さんだ。夕方出せば、翌朝には結果を知ることができる。
 健康診断とは違い、いくつかの病名を懸念して、医師は検査項目を選んでいる。結果によって診断が変わるのだから、翌朝、結果が届いてないとクレームになる。
 診療に出発する前に知りたい。もしかすると診療スケジュールを変更し、危ない患者宅へ急行しなければならないから、朝の医師たちはピリピリしている。
 検査会社は八時頃FAXしてくる。だが、FAXには患者名と年齢しかない。それを主治医に振り分ける。氏名はカナだから、結構面倒な作業だ。結果を自動で電子カルテに取り込めれば省力になるし、ミスもなくなる。医師は朝クリニックに立ち寄らず、患者宅に直行することもできる。
 「何を疑い検査したのか、結果からどう診断するか」カルテに記載しなければならない。検査は項目によって百円から数千円、高齢患者は基本毎月検査、重症なら毎週もある。検査にも保険が適用される。だから、検査の根拠が書かれていないと監査で指摘されてしまう。最悪、診療報酬の返納になる。
 FAXの画像データではコピー&ペーストできないから、データで取り込みたい。。データなら引用して「○○の結果が〇〇なので○○と診断」とカルテに書くのが容易だ。
 検査結果データの形式は、各社独自である。検査会社に訊くしかない。最初に問い合わせたのは二〇一二年五月、運用開始の翌月、それだけこの要望は大きかった。
 検査会社の営業はすぐに動いてくれた。クリニックの中で開発しているメリットだ。ところが、営業に紹介された検査会社のIT部門は、なかなか返事をしてこない。三回プッシュして、ようやく検査項目一覧がメールで届いた。三千項目以上あるエクセルだが、意味不明の列がいくつもある。会って訊きたい。訪問のアポがとれたのは夏になっていた。
 IT部門は都心から電車で一時間半、検査センターの中にあった。結構大きな工場。受付で課長を待っていると、車やバイクがやってくる。血を運んできたのだ。それをベルトコンベヤーに載せ、検査機械に流していく。検査機械がずらり並んだ工場内を見渡せるショーウィンドウがロビーの横にあった。
 アポした課長さんがやってきた。私は名刺を差し出し、電子カルテ開発は初めてです、よろしくご教授をと頭を下げた。課長は名刺を持ってきていなかった。(いやな予感)
 「おたくのクリニックはさ、月いくら出してんの」クリニックが検査に月々いくら払っているのか、私は知らなかった。
 在宅医療なんて、医師が一人コツコツやってんだろ。データ化は大病院の話、クリニックには分不相応、しかもこんな素人が来やがって。課長の後ろ姿がそう語っていた。
 「ここで待ってって」通されたのは倉庫?椅子も机も何もない。NTTコムウェアでも、国営企業や大手企業から邪険にされたことはあるが、ここは中堅の検査会社、しかもこちらが客だ。それなのに電気も点かない部屋で待つ。先生に立たされている生徒のようではないか。
 きっとこの課長さんもいじめられたのだろう。病院は電子カルテメーカをいじめ、メーカは検査会社をいじめる。いまの私は、カーストの最下層なのだ。
 コピーは十数ページしかなかったが、半時も待たされた気がする。質問し、礼を言うと、課長は五十六歳を少し可哀そうに思ったのか、サーバルームを見せてくれた。大型冷蔵庫サイズのメインフレームが四台並んでいた。「あそこにおたくのアカウント用意したらメールするから」
 何度かメールをやりとりして、データ化は完了した。ただし、メインフレームとの通信はVPN、パソコンに専用ソフトと暗号鍵を設定しなければならない。ファイル転送はFTPだ。看護師や事務スタッフにはとても頼めない。朝晩二回のFTPが日課になった。
 部下が入社しても、朝八時のFTPは私が担当した。夕方、検査オーダの送信は新人に頼んだ。
 しばらくすると、結果の取り込み時にエラーが発生するようになった。どの患者のいつの検査か、識別するためIDを付与してオーダする。そのIDが結果に付いて返ってくる。だが、対応するIDが見つからないケースがあって検査会社に問い合わせる。そんなトラブルが毎日発生するようになった。
 医師から「〇〇さんの結果まだ?」と電話がくる。検査会社からの回答をイライラ待つ。すると、IDの桁が1つ欠けていることに気づいた。血を集めたあと、検査会社のスタッフがIDを手で入力していたらしい。識別するだけだ、下4桁でいいでしょ。勝手にそう考えた奴がいたようだ。そういえば、IDが5桁になってからエラーが起こるようになった。このIDトラブルが一向に是正されない。私は怒り、医師らも怒り、とうとう検査会社を変えることになった。
 業者選定前に、検査の委託費用を調べておこう。過去の請求書を見ると「生化学検査いくら、血液学検査いくら」と丸めた金額しかない。個々の検査項目の金額が分からない。比較されるのを防いでいるのか。そこで、一カ月のすべての検査の内訳をリストアップし、「御社はいくらでできるか」見積もってもらうことにした。
 大手の検査会社は、意外にも紳士的だった。在宅の患者数が急速に増えていた背景ももあったのだろう。そして、私も新人を脱していた。いまは主な検査会社とデータ化を完了している。

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