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自己啓発本って役に立ちますか?

子どもの頃、モーニングショーという番組をよく観ていた。その中で、私の大好きな人気コーナーがあった。

宮尾すすむの「ああ日本の社長」である。


日本各地の社長を取材。成功の秘訣を探っていく。そして最後はいつも、

「あなたも、これで、社長に、なれる……かもよ!」

の決め言葉で締めくくられる。

まだ幼かった私は、

「こ、これで、ぼくも、社長に、なれる……かもよ!」

と、本気で思っていた。



「自己啓発本って、役に立つと思いますか?」

ある人に聞かれた。

ここはひとつ。

自己啓発本を読みまくった人生のパイセンとして、宮尾すすむイズム最後の継承者を自負する者として、含蓄のあるアドバイスをしてみたい。


「読む人によると思います」


箸にも棒にも掛からぬ、情報量ゼロの言葉が、口をついて出た。びっくりした。でも、これには深い意味がある。


「自己啓発本なんて意味がない」という趣旨の発言を、よく耳にする。その一方で、自己啓発本の売れ行きがよい、という話も聞く。

売れ行きがよい理由。それはしばしば、ダイエット本を例に説明される。

「たまごダイエット」に失敗した人が、次は「りんごダイエット」。それでダメなら、「レコーディングダイエット」。

上手くいかなかった人が、次々に新しい方法にチャレンジする。

結果、ダイエット本は売れ続ける。

本を読んでも成功しなかった人が、また別の本を買うという、蟻地獄のようなビジネスモデルによって、成立しているというわけだ。

私にも経験がある。

10代後半から30代にかけて、自己啓発本を読み漁った。

本を読めば、モチベーションが上がる。その勢いでがむしゃらに仕事をする。やる気が落ちてきたら、また読む。モチベーションが上がる。

この繰り返しで、なんとか頑張ってきた。いわば、私にとって自己啓発本は一種のカンフル剤のようなものだった。

結果どうなったか?

燃え尽きた。真っ白な灰になった。会社を辞めた。

いまは、ほそぼそと個人事業を営んでいる。無駄に確定申告のスキルだけが上達していく。

儲かっているのかって?

ご想像におまかせする。

せめて参考までに、最近読んだ本を2冊だけ紹介しよう。


「手取り14万円 これが私の生き方」
~低収入でも豊かです♪  労働ばかりするのやめました~

「実録 脱税の手口」
~こんなスキームがあったのか!知られざる「現代の錬金術」の実態~


お察しください。


話を戻そう。自己啓発本には意味があるのか?

意味がある、といえばあるし、ないといえば、ない。

どういうことか?

ひとつずつ考えてみよう。

まず、意味が「ない」理由。

それは、著者と自分は、まったく違う人間だということ。

容姿や性格、育ってきた環境が違うのだから、夏がだめだったり、セロリが好きだったりする。

しょせん他人が成功したやり方だ。自分にも当てはまるなんてことは、ほぼない。


「成功の秘訣は早起きにあった!」
~朝起きたらやるべきたった3つの習慣~


などの言葉を真に受け、ある低血圧の男性が頑張って早起きを実践した。

結果、日中のパフォーマンスはガタ落ち。クライアントとの会話中、居眠りをするという大失態を犯す。私のことだが。


話はそれるが、

「皇居を走る男性ランナーの半数以上が、年収700万円以上」

というデータを引き合いにし、

「デキるビジネスパーソンの多くは走っている」

からの、

「ランニングをすれば成功できる!」

など。

こんな、三段論法には気をつけろ。論理の飛躍が過ぎる。アリストテレスもびっくりだ。

そもそも、皇居を走るということは、皇居の近くに住んでいる人が多いわけで。

皇居周辺に住めるということは、そこそこ年収が高いわけで。


話を戻そう。

自己啓発本に意味が「ない」、もうひとつの理由。

それは、時間軸を長くとると、成功か失敗かわからないということが起こる。

時代の寵児と崇められていた著者が、数年後に破産するなんてよくある話だ。

人間万事塞翁が馬である。

一見すると不幸な出来事が幸福に転じる。またその逆もあり。そんなこと、後になってみないとわからない。

ある男が交通事故にあった。

さて、男にとってこの事故は、幸か不幸か?

普通に考えれば不幸だ。

しかし、入院先の病院で、担当してくれた看護師さんと結婚することになった。

さて、男にとってこの事故は、幸か不幸か?

う〜ん、事故が運命の出会いを演出してくれたと考えれば、幸かな。

しかし、この看護師さん、実は無類のハイブランド志向だった。全身モノグラムの洋服をまとい、靴やバッグなどのショッピングが、もうどうにも止まらない。

男の給料は全て使い込まれ、それが原因で離婚することになった。

さて、男にとって……


次に、意味が「ある」理由。

それは、本気でなにかを学ぼうとしている人にとっては、道端に転がっている石ころでさえ学びになる、ということだ。

秦末期から前漢初期の頃、張良という人がいた。

若かりし頃の張良は、兵法の奥義を学ぶべく、黄石公という老師に弟子入りする。しかし、いくらたっても何も教えてくれない。

そうしたある日、張良は街中で馬に乗って向こうからやってくる黄石公とばったり出会う。すると、黄石公は沓(くつ)を馬上から落とし、「取って、履かせよ」と命じた。

張良、内心は少しむっとしたが、命じられたとおり沓を履かせる。

数日後、張良はまた街中で馬に乗った黄石公に出くわす。すると黄石公、今度は両方の沓を落とし、「取って、履かせよ」と命じる。

黙って沓を履かせる張良。しかしその瞬間、張良は全てを理解し、兵法の奥義を体得する。

黄石公もそれを認め、無事免許皆伝となりましたとさ。めでたし、めでたし。


どゆこと?


これに解説や模範解答のようなものはない。読み手の数だけ答えがある。

ただここで示唆されるのは、本気で何かを学ぼうとする者は、師匠がただ沓を落としただけでも、そこから何かを学びとることができるということだ。


そんな人が自己啓発本を読むのなら、そこから何か大切なエッセンスを見出すことができるだろう。

しかし、このような人はどんな事象からも何かしら学びに変換できるので、あえて自己啓発本など読む必要はないとも言える。

と、いうようなことを脳内で爆速思考してからの、「読む人によると思います」なのである。

決して口からデマカセ、適当に返答したのではないということをご理解いただきたい。


学びというのは、どこかの大学教授や、長い風雪に耐えた歴史的名著などによってしか得られない、というわけではない。

学びは、自分の外側にいくら求めてもキリがない。学びの本質は、自分の内側にある。


つまり何が言いたいのかというと、本当に心の底から何かを学びたいと欲するのなら、私のつたないエッセイからでも、人生における大切な何かを見出すことができる、ということである。

さて、あなたはこれを読んで、何を学びました?


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