【ネタバレ】ダンジョンで飯を食う俺、そしてお前。

ダンジョン飯

それは食うか食われるか

そこには上も下もなく

ただひたすらに食は生の特権であった

ダンジョン飯 ああ ダンジョン飯

「ダンジョン飯」より

 ダンジョン飯を読破した。
 俺はチェンジリング辺りまでは単行本派としてリアタイで追っていたのだが、次巻刊行の遅さゆえに完結後に読む方針に切り替えてからその存在を完全に失念していた。当時ダンジョン飯は俺の中であまり大きなウェイトを占めていなかったものと思われる(正直理由はよく覚えていない)。
 更に完結したことを知ったのはアニメ化されてからである。そして今回一気読みしたのもアニメの出来がよかったからだ。
 早い話が「マルシルかわい^~」と思った。今回読破したのもそんなミーハーな理由である。原作って妙に主人公一行に感情移入できなくて、俺が途中で投げ出したのはそういう理由もあったと思う。まあ主人公のライオスが意図的にそういうキャラクター性にされているのは十分承知しているが(そういう奴が王になる過程を描く物語だし)、問題は周囲のマルシルやチルチャックといった感情豊かで気のいい連中が好きにも嫌いにもなれない薄味な存在と感じられてしまったことである(九井諒子の絵って上手なんだけどなぜかすごい薄味な印象を受ける。※あくまでも個人の感想です)(あと、これは俺がこの漫画の楽しみ方を間違えていただけかもしれない)。
 ところがアニメ化によって色と音と動きがついたことで薄味だった主人公一行に一気に親近感を覚え、これまでは単純に「なんか世界観作り込んでるのに飯ばっか食ってる漫画」だったのが、「悪食な主人公たちが旅のさなかの食を介して自分や他人、ひいては世界と向き合って成長していく漫画」になったのだ。
 そういうわけで興味が再燃したので読破するに至ったわけである。
 俺は元々漫画のアニメ化というものに懐疑的だった。そも、漫画に最適化されたコマ割りや演出なのだからアニメ化したところでフォーマットの違いから違和感バリバリになる上に仮にアニメ化したところで原作によっぽど理解のあるスタッフが労を惜しまないで作り、そこに+αすることでようやっとその意義が生まれると考えていたからだ(俺がこんな思想を抱くようになったのは前回観たアニメ化作品があの悪名高い「チェンソーマン」だったからかもしれん)。
 要は「原作読めばストーリーは分かるじゃん」ということだ。
 だがこのダンジョン飯は先述したように元から主人公達に強い印象を持てなかったので、そもそも原作への興味を持続することができなかった。よって今回のアニメ化は主人公に好感を抱かせ、物語に興味を持たせたことからしっかりとその意義があったように思う。
 そんなわけで彼らを好きになれたので、俺は漫画のアニメ化も悪くはないと思い直したのだった。
 
 んで、肝心の原作の方はゆるーい冒険ものと思わせておいて実は設定がガチガチに作り込まれた群像劇だった。物語の舞台となる島の利権を巡って対立するトールマンとエルフとドワーフたちがそれぞれ策謀を巡らせる中、それでも話がぶれないのは、基本的に主人公一行が「妹を助ける」という一点のために行動するという縦軸があるからだと思う。そこが物語開始時からしっかり定まっているので視点が切り替わっても話が散漫にならないのだろう。それらが最後は一つになって○○するシーンは感涙必至である。食に始まり、食に終わる。この着地は見事である。
 
 主人公たちの境遇を考えるととんでもないシリアスな作品になりそうなもんだが、そんなことおかまいなしに物語はギャグみたいな軽やかさで進行していく。主人公はどんな時でも必要以上に立ち止まったりしない。「立ち止まる暇があったら手を動かして飯を食う」、そういうキャラクターなので当たり前と言えば当たり前なのだが、それが物語に必要以上の停滞を寄こさないので安心して読める(実際シリアスになりすぎた結果の空腹で妹を失ったようなもんだし)。
 ただ逆にそこがスムーズ過ぎてついていけないかもしれん(俺がそうだったし)。
 それでもギャグがここまでストレスなく読める作品は珍しいと思った(俺は漫画をあまり読まないが、ここ最近の漫画のギャグは見てられないので)。
 
 また、作品の魅力を支える登場人物も多彩だ。俺は個人的にカブルーが好きだった。この作品の登場人物は主人公一行に(物理的にも精神的にも)近づく程シリアスさが消し飛んでいくという法則があるのだが、それを見事に体現したキャラクターだと思う。始めは腹に一物抱えて主人公に近づいていくわけだが、徐々に自分の立ち位置を理解してエルフ相手に立ち回っていく様は中々面白い。もう一人の主人公といってもいいかもしれん。
 
 さらに作り込まれた世界観も圧巻である。俺はファンタジーと聞くと適当に剣と魔法振り回して暴れ回るバカワールドを想像するのだが(想像力の欠如)、この作品は魔力の由来やら魔物の性質やらがかなり考えられており(魔物を食う話なので魔物に関してもしっかり作り込まねばならんのだ)、そうした要素が俺のオタク心を刺激する。
 みんなも好きだと思うが、俺は巻末のモンスターよもやま話が好きだった。中でも肥溜めゴーレムについての考察が秀逸で、ウンコからゴーレムを作ったら発生したメタンガスに引火して大惨事になったくだりは爆笑したものだ。それがメーカー視点で描かれるのも面白い。
 こうした論理的な考察が全編に散りばめられていて、それらの積み重ねが食に収束する結末はやはり素晴らしいと思う。

追記:そーいやアニメ化発表と同時に主題歌がバンプに決定した時、バンドのコメントで、「連載開始当初から読んでました」と他の人たちとの格の違いを見せつけていたのがすげーおもろかった。伊達に綾波レイの非公式キャラソングを作っていないだけのことはある。
 よく「藤君は元ガチオタ」という声を聞くが、俺に言わせれば彼はバリバリ現役のオタクである。確かに曲調はデビュー当初と比べればマイルドになったが、それでもそのマインドは健在だ。
 主題歌の「Sleep Walking Orchestra」にしたって、ここから読み取れる藤原基央の作品に対する理解はとても深いと感じた。
 この歌はおそらくファリンのことを歌っているのだろう。
 タイトルにある「Sleep Walking」とは夢遊病のことだ。「あれは恐らく悪魔だった」とあることからこれは、物語終盤の、凍結された状態で夢うつつのファリンと獅子との会話のことだろう。「外から窓をくぐった光が最初の床に作った最初の友達」というのも、彼女が魔術の才能があったことから他の子供たちと隔離されて育ったことを指していると俺は推察する。
 彼女はそのポジションゆえにあまり出番が多くなく、回想を除くと主人公との絡みは少なめだ。そういうこともあってか藤原基央は不憫とも言える彼女にフォーカスを当てて楽曲を製作したのだろう。また上記の会話のシーンは物語を象徴する選択のシーンであるため、同じく物語を象徴する役割を持つ主題歌がこのシーンを選択して作られたのも必然のように思える。
 最近は米津玄師のようにポップながら作品に深い理解を示す主題歌を作る人たちもいるが、このバンプはそうした今をときめく人たちにも負け劣らぬ技量を発揮していたように思う。
 未だ衰えを知らぬバンプであった。

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