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Memory of the ghost.

 幼い頃、幽霊が怖かった。
 夜八時に入るベッドの下はいつも暗闇で、そこに何か恐ろしいものが潜んでいて、何か恐ろしいことをぼくにしようとしているのだとずっと思っていた。寝る前のひとときは常に恐怖と共にあった。
 ぼくがそれを克服できたのは兄の助言によるものだ。怖がるぼくに兄はこう言った。怖がることはない。ベッドの下には何もいない。お前が恐れているのはただの幻想で、そこを覗き込んでみれば恐怖は消えて無くなる。そんな兄も、今は刑務所の中だ。
 助言を胸に意を決したぼくはその日の夜、ベッドの下を覗き込んだ。そこには何もなかったけど、ぼくが目を離した隙にまた現れるのではないかという疑念はなかなか消えなかった。だからぼくはそいつを消し去るためにベッドの下に潜り込み、一夜を過ごした。
 それからぼくは幽霊が怖くなくなった。なぜならぼくが幽霊になったからだ。ぼくは幽霊の視覚と同期して、そこから見える風景からその存在を余すことなく想像し、解釈し、理解してしまった。幽霊は座を明け渡し、ベッドの下はぼくの領域になった。
 それ以来、幽霊はぼくの元に現れていない。そしてぼくは奴のようにこの場所を他人に明け渡すことなどないだろう。なぜならぼくは実体のある存在だからだ。誰もぼくをこの場所から動かすことなど不可能だった。

 そしてぼくは今、四季島小百合《しきしま・こゆり》の住居のベッドの下で彼女の生活様式を眺めている。夜八時に過ぎ、バイトから帰ってきた彼女が疲れた顔でベッドにダイブしたのを、ぼくはその下で感じる。まずいことになったな、と思った。
 彼女はいつもこの時間帯に帰ってくる。外食かどうかはその日その日によってまちまちだ。家事はそれほど苦手ではないようだが、片付けは面倒くさいらしく、あまり料理はしなかった。仕方ないのでぼくが使ってやることにしていた。もちろん痕跡は一切残さない。その点に関してぼくはどんな人間よりも優れていた。人よりも幽霊に近い性分なのだ。
 ここからは全てが見渡せた。彼女の部屋は小さな八畳ほどの空間で、インテリアなどほとんど置かないため、隠れるのはベッドかクローゼットしかない。実に簡素ながらも上品な部屋だった。ぼくがこの部屋を選んだ理由もそこにある。
 彼女は大体遅めに起きて大学に行き、その間家は空けている。彼氏は前までいたようだが、既に破局済みらしく、彼が勝手に合鍵で入って来ることを用心する心配がなくなったことが、ここ最近のグッドニュースだった。ベッドの下で情事の音に憂鬱になる必要もなくなり万々歳だ。だからぼくはその時間に活動を開始する。あまり掃除をしない彼女のために掃除機をかけ、彼女の本を読み、いくばかの下着をポケットに突っ込んで、何もなかったかのように部屋を元通りにする。それがここ最近の生活だった。
 ぼくが彼女を幽霊としてベッドの下から見つめるようになって早三年。ある日の夜、道を歩いていた四季島小百合を見つけ、その後を尾けたのがこの奇妙な生活の始まりだった。当時幸運が積み重なって大金が転がり込み、隆盛と暇を極める人生を送っていたぼくは、ついその刺激にのめり込んでしまった。数週間かけて彼女の家を監視し、探偵を雇って秘密を探り、遂には合鍵の在り処を見つけ出して侵入した。それを繰り返すうち、刺激はやがて日常になり、無聊は幸福に変わった。ぼくは彼女との奇妙な共同生活を楽しんでいた。当時彼女はまだ付き合っている男がいて、その仲睦まじさは側から見ていて嫉妬に悶えて狂う程だったけど、ぼくの方が彼女と過ごす時間は圧倒的に多いと、無意味な優越感に浸って喜んでもいた。かといってぼくは彼女に淫らな欲望を抱いていたり、結婚を申し込みたいわけでもなかった。ただ、他人の家をまるで我が物のように闊歩し、その痕跡すらも遺さず二重生活を送ることに対する異常な背徳感や、その捻れ切った非日常感を楽しんでいるだけだった。まるで夢と現実のように二つの生活が一つの部屋で行われる奇怪さこそがぼくを幽霊たらしめる要因だった。
 だからこそ異物が紛れ込んだ時は不快な思いがした。先程述べたまずいこととは彼女が帰ってきたことではない。彼女はベッドの下を怖がるような年頃ではないし、ぼくと違ってそこになんの興味も示さなかった。だから覗き込まれる心配も皆無だった。
 問題はこの部屋に第三者が紛れ込んでいることだった。ぼくがいつものように片付けを終え、いざ家から出ようとしたその時、玄関の戸が開く音がして咄嗟にぼくのホーム──ベッドに潜り込むと、聞き慣れない足音がしてぼくは眉を潜めた。しばらくの間黙って様子を伺っていたが、そいつは部屋を漁っているらしく、不快感はますます増していった。こそ泥が一匹入り込んでいやがるのだ。なによりもぼくが完璧に元通りにした部屋にずかずかと入り込んで荒らしているのが許せない。
 ぼくがベッドの下から這い出て、そいつの首根っこを締め上げてやろうと決心したところで四季島小百合が帰ってきた。ぼくが咄嗟に息を潜めるのと同時に、こそ泥もクローゼットの中に隠れた。こそ泥は部屋に侵入する時に鍵を閉めており、また玄関の戸が閉まる音で、彼女はこそ泥の存在に気がつかなかった。
 まずいまずいと述懐した。なんとかしなければ彼女の身が危ない。追い詰められた人間が何をしでかすのかわからなかった。最悪の場合、こそ泥が強盗殺人犯にランクアップする可能性だってある。かといって下手に動くとぼくの存在を気取られかねない。長らく続いたこの関係をこんなことで終わらせるのは惜しかった。なんと言っても幽霊は人前に姿を現さないのだ。
 それでも彼女はいずれこそ泥の存在に気がつくだろう。その時何が行われるのか、考えるだけで怖気が走った。
 しばらく二つの選択肢の中で葛藤する。
 ──幽霊はただ闇の中で人を見つめるだけだ。
 ぼくらはどうだろう。人は恐怖するからこそ幽霊を見つける。幽霊もまた恐怖の中からぼくらを見出す。だが彼らを恐怖しない人間はどうなのだろうか。人から見られることのなくなった幽霊はただ消えてしまうのだろうか。
 ぼくは幽霊に成り変わることでベッドの下を支配した。だがそれで幽霊がいなくなったわけではない。それは確かにまだ、ここにいる。ここでぼくを見てない他人を見てる。
 幽霊は、ぼくはまだここにいる。
 他人に認識されなくなった時、幽霊は叫ぶのだ。自らの存在を知ってもらうためにありとあらゆる手段を講じる。それはコミュニケーションだ。そしてそのコミュニケーションの中には危害だって含まれていいはずだ。それこそが自分を恐怖してもらえる、認識してもらえる大いなる機会なのだから。
 それは矛盾だろう。けれども存在することそれ自体がぼくらにとっては矛盾なのだ。ひとつ分の場所に、二つがあることそれ自体が。

 ……だからぼくは、ゆっくりとベッドの外へと手を伸ばし始めた。

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