231225

部屋の戸を開けた。
視線を右側にうつすと、君は寝床についているようだった。
「戻りました」
壁、実際には天井まで伸びる本棚の方を向いていた君は寝返りを打って、私の目を見た。
「そうか」
そしてまた寝返りを打った。
私は、部屋の中に違和感を覚え、また、もし勘違いであるならばこれは失礼に当たると感じ、もう一度部屋の中を見渡して、そして口を開いた。
「あれ、もう一人は?」
「帰ったよ。始発が動いたから」
「…そうでしたか」
そうなると話は変わってくる。ここには私と君しかいないことになる。
私は数歩歩くと膝折り座り込み、肩にかけていた革の鞄を下ろして左手の方へ退けた。
「まだ夜明け前ですよ、約束は守りました。寒いです。入れてください」
そう喋りながら私は毛布越しに君を揺り起こす。
君はまたこちらを向き直して、数秒後、嫌な顔をした。
「君、煙草を吸ってきた?」
「ああ、一本貰いましたが…多分、私が吸ったからというよりは皆さんの副流煙が服に沁みたのでしょうね」
君はあからさまに嫌な顔をした。
「今日は帰ってくれ」
「何故ですか」
「僕は煙草の匂いが嫌いなんだ」
私はこの瞬間、何故か怒りのような、嘲笑のような感情に駆られたのを覚えている。
多分熱が出ていたのだと思う。碌に眠れず、吐くこともしばしば、という頃で、しかしクリスマスだから、といって身体を引きずりながら挨拶回りをしていたところだった。
「私だって嫌いですよ。貴方は、ああやって一生懸命生きている人たちを、そうやってずっと部屋からも布団の中からも出ないまま、何も知らないまま、馬鹿にしてるんだ」
私がこうやって怒っても、君は驚いたような顔を見せない。
「帰ってくれ。不愉快だ」
私は君の腕を掴む。
「触るな」
爪を立てる。
「触るな!」
私は、パッと両手を顔の横まで上げる。
「ごめんなさい」
君の目は軽蔑するような呆れたような真っ黒をしている。君はいつも朝方になるとこういう目で私を見る。
私は私で、今日で何徹目だろうという頭をぐるぐるさせながら必死にこいつを言いくるめてやろうと考えている。
「髪の匂いが嫌なら、風呂に入ってきてやろうか、服の匂いが嫌なら、服ぐらい脱いでやろうか」
勿論、「はいそうですか、じゃあやってみてください。どうぞ」と君が言えないことを知っていてのハッタリに過ぎない。だからこれは寧ろその軟弱な精神への煽りと化している。
「五月蝿い、出ていけ」
「だからお前はガキなんだよ」
怒り、私は君の首元を掴む。
「×××××××」
手を離す。君は怒ると異国語で話す癖がある。言葉の意味は分からないが、とにかく本当にやめて欲しいということだけ理解できるように慣らされていることを実感する。だからつまりこれは多少の関係性の深さを表すだろうと考えていた。
「分かってる、君の言ってることは多分正しいんだろう」
私は黙っていた。
「じゃあどうしろっていうんだ」
「トレーニングですよ、嫌なものを、あえて摂取するの」
「はあ、つまり」
「つまり…」
ここで私は気づく。次に私は、「だから私をこのままここに置いて。ついでに寝かせて」というほかない。自分でもこんな論理の組み立て方をしてるとは思わなかった。あまりにも体が疲れすぎていて、とにかくこの寒空の下追い出されないようにもっともらしいことを話し続けていたことになる。私は失笑する。
「だから私を、追い出さないで、ってことになりますね。驚いた」
「君はそういうところがあるね」
「よくご存知で」
「気づいたなら良し。出ていけ」
「はいはい、そうですね。そうします」
私は荷物をまとめようとする。これから三時間電車に乗って、実験に出て、そのあとまた働かなくてはいけない。
私はいきなり恐ろしくなった。無理だ。どう考えても無理だ。
帰りたくない。
私は泣き出した。
君は驚いた顔をした。
「どうした、泣かせたか、それはすまなかった」
「いえ」
少し沈黙が流れる。
「あのね」
「はい」
「こんなことを言うと嫌われるのかもしれないけれど、いや、嫌われるために言うのかもしれないけれど」
「はい」
「僕はほら、対象は男だということは君は知っていると思うけど」
「はい」
「女性の経験もある」
「そうですね」
「その、女性の泣き顔が、ダメなんだよ、血が集まっていくのを感じる、早く出ていきなさい」
成程、と思った。別にこのとき、嫌悪感を抱くようなことはなかった。多分体格的に脅威ではなかったことや、この距離感で情欲を向けられた経験がなかったわけではなかったからだ。ただ私は気持ち悪い!と言っていつものように殴り倒したりはしなかった。
ただ泣き続けていた。これは君と一緒にいたかったからではないのだと思う。連絡すれば戻れる場所もあったし、つまり、とにかくこれ以上動きたくなかった。

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