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「才覚」

 夏が憂鬱を連れてくるのではない、夏が憂鬱そのものだった。太陽を忘れた肌が白く透けるようになっても、陽炎に浮かぶ空蝉は、どうも焼き付いて仕方ない。

 彗星の尾のように、彼女の痕跡だけが、時折思い出しては降り注ぐ。願い事を唱える前に、再度それは消えてしまう。
 常に数歩先を軽やかに、天才と呼ぶには惜しい。彼女にとっては、全てがお遊戯で、予定調和で、それを前に自分がいかに凡才か、思索する必要もなかった。冬に窓を開けた時、「うぇ、」とぼやく程度に、直感的に刹那的に圧倒的に、敵わない、と分かった。
 古傷が痛むのだ、夏とはそういうものだ。だから鬱だ。後に何人も、賢い人に出逢った。自分もそうなんじゃないかと、驕った日もあった。だがダメだ、足りない、欠如だ、届かない、イミテーションだ、全部。
 この話に、それは恋か?と問う人間もある。しかし彼奴等は何一つ分かっていない。恋、愛、尊敬、信仰、崇拝、そのどれ一つでさえ、安価なガラクタなのだ。言語の悪いところだ。なぜなら言語は、凡人のやる事だ。

 一週間、彼女と過ごしたそれだけが、僕の人生を根刮ぎ変えてしまった。凡夫たる僕には、これが絞り出して、唯一能う言語表現である。


 よく、大人のような話し方をするな、と思った。何より丁寧で、頭に滑り込むような言葉遣いなのだ。そこに一切の無駄はなくて、予め会話の筋書きが決まっているような、とにかく気味が悪かった。
 名前を聞いても、ずっとはぐらかされ、親の呼んだ「ちーちゃん」という声が、いま彼女に関する唯一の個人情報になっている。

 ある頃の僕は、学校終わりに一人で、少し遠くの公園に行って、見慣れない景色に彷徨うのが日課だった。そんな最中に、彼女と出逢った。
 身体が虚弱なのに散歩をして、少し広い公園の、背の高い木の下、木洩れ日に揺蕩うように、顔を伏せてしゃがんでいるのが、初めて見た姿だった。
「大丈夫?」
 返事はない。
「どうしたの、怪我したの?」
 やっぱり返事はない。ちょうど同級生より、少し体は大きく見えて、上級生だろうと推察した。
「何してるんですか?」
「無視をしてる」
 すっと顔を上げて、少し青に近い色の虹彩と目が合う。
「そう、日本人じゃないよ」
 何も言っていないのに、彼女は僕の考えを掬い上げる。心を読まれたようで、ドキりとする。
「どうして?だって、みんな同じ事を聞くから」
 どうして分かったの、と言葉を絞る前に、彼女は答えを並べた。
 それからも、まるでRPGの2周目で、テキストを飛ばすみたいに、彼女は僕の言葉を早送りした。2、3文字発するだけで、何を言うつもりか、すっかりバレてしまう。「親は「置いてきた」」、「今なんさ「歳は秘密」」、「ここで「疲れたから座ってるの」」
 それが5回ほど続いて、全て見越されているのが気に食わなくて、僕はクリスマスソングを歌い始めた。因みに、その日は夏至から1ヶ月で、サンタは休暇中だった。
「ウィーウィッシュアメリメリーウィーウィッシュアメリリー」
 流石の彼女も面食らったようで、「下手くそ」と初めて笑った。

 名前は教えてくれなかった。プライバシーがどうのこうのと、難しい事を言った。「プライバシーの英語の発音めちゃ日本語だね」と言うと、初めて聞く言語で、罵倒らしきものを連ねた。
 bonという発音だけ、妙に覚えていて、後々にテレビを観て気付いたが、あれはフランス語だったように思う。
 因みに今後も、よく何か気に入らない発言をすると、フランス語で捲し立てられた。意味を取らせず、気を悪くさせないようにという、彼女なりの良心なのだろうが、表情にしっかり悪意が出ているので、意味はなさなかった。もしくは、それを込んだおふざけだった。
 僕がちらりと来た道を見ると、「もう行く?」と彼女は聞いた。体感時間で1時間は過ぎていて、流石に帰らないと怒られる。最も、この歳の時間感覚は出鱈目で、実際はもっと経っていたのだけれど。
「私も行く」
 よろけながら立ち上がって、数秒頭を押さえた。僕は身長が高い方だったけど、それより少しだけ背の高い彼女を見て驚いた。
「肩借りていい?」
 ふらふらと歩み寄ってくるけど、僕は縦にばかりエネルギーがいってしまって、もやしの様な少年だったから「支えられる自信ない」と答えた。
「いや、いける」
 右に立つ彼女とその反対側に、ペタリと冷たい左手が乗った。やがて重さの本体が来る、そう思ったが、それで全てだった。身長はあまり変わらないのに、僕の何倍も軽かったかも知れない。
 どう過小評価しても可愛い、彼女の柔らかい髪が僕の首筋を撫でて、心臓が昂った。彼女は小さく、「わかるよ」と言った。

 道案内されながら、宿に着いた頃には日がだいぶ傾いていて、入り口に彼女のお母さんが立っていた。
「ちーちゃんどこ言ってたの!」
 心配半分、激昂半分で駆け寄ってきた。なんとなく、典型的な反応だなと思った。100人無作為に母親を抽出して、平均したらあの感じだろう。
 いつの間にか、足を痛めた彼女を僕が助けた事になっており、さっきまで普通に歩いていた彼女は、左足を庇うように歩いている。
「ありがとう、えっと、ぼく名前は?」
 母親が聞いてくるのを、僕は彼女をちらと見て。
「プライバシーなので」と答えた。
彼女は噴き出して笑って、「早く帰りなよ、プライバシー」と言った。その日は結局、門限に2時間も遅れて、22時まで家に入れてもらえなかった。

 次の日、僕は帰りの会が終わるなり、一目散に駆け出した。彼女の存在を独り占めするべく、「用事がある」と適当ぼやかして、校舎へ友人たちを置き去りにした。
 家に着くなり、ランドセルを玄関へ放り投げて、手早く自転車に跨る。ペダルは心なしか軽く、昨日の公園まであっという間に着いてしまった。息を切らしながら入ると、昨日と同じ位置に、団子になった彼女が居た。思い返せば何故か、そこに行けば彼女に会えると、疑いもしなかった。約束していないのに。
「やあ」と声をかける。
彼女は陶器のような、白い顔をあげる。
「6限?」
 口を開くなり、時間割を聞いてくる。長く待っていたのかも知れない。
「違うよ」申し訳なく答えると、「ああ櫻江小学校か」と聞こえる音量で呟いた。
 僕がポカンとしていると、「そっちだったか」とまたボヤいた。僕は「違うよ」のたった一言で、数カ所ある小学校の内、どこへ通っているかを特定されたのだ。
「プライバシー、不用心な未成人」
 彼女は妙に語呂よく、そのような事を言って、ふらふら立ち上がる。そうして僕の両肩に手をついて、「カフェに行きます」と言った。僕は何か上手い返し方を、と思案した後、「はい」とだけ応えた。

 古い記憶だ。部分的に欠落がある。というより、部分的にしか残っていない。
 僕と彼女の大半の時間は、対話に使われた。当時の僕は、日常的に屁理屈を捏ねて大人を困らせ、同級生より弁が立つ自信があったから、よく食ってかかった。ただ、彼女に一つでも、勝ちたかった。

 例えばカフェにて。
 彼女はフルーツのジュースを頼んだ。とびきり甘そうなやつだ。背の高いグラスに、先が見えない程濃厚な、果汁が注がれていて、それを氷と共にストローでかき混ぜていた。
「ちゃんと子どもみたいなところあるんだね」
 僕はそれを見て、少し皮肉めいたニュアンスで言った。
 今思えば、言いがかりですらない。彼女は大人を自称していないし、目指している訳でもなかった。
 彼女は言外を悟って、少し嬉しそうな顔で反論する。
「あのね、大人と子どもでは舌の構造が違うの。だから、この美味しさが楽しめるうちに飲むべきだよ」
それに、と付け加える。
「大人ぶるなんて、子どもみたいじゃない?」
 完敗であった。

 その後も何度か、対話、ないしはお説教を受けることになった。同級生が「○んこ」の「○」に色んな文字を代入して遊んでいる間、彼女の言葉は楽しかった。そしておそらく、正しかった。
 毎度、僕の理論について、粗を指摘しながら、彼女はいつもニコニコしていた。知らない人間が見れば、その笑顔は馬鹿にしているように映ったか、或いは、自己顕示に酔っているように感じるだろう。しかし、その何方も間違いであって、彼女はただ、楽しかったのだ。これもまた、後に気づいた事だ。

 彼女について、後の人生でやっと、合点がいく事が多い。それも周期的に、遅れてやってくる。
 ある時、二匹の蝶が共に飛んでいるのを見て、仲良しだねと僕は言った。
 彼女は少し泣きそうな目で俯いて、顔を赤くしていた。

 僕達がやっていたのは、おそらく傷の舐め合いだった。辛うじて現実に、社会に、スレスレなところで絶望しないよう、慰め合っていた。

 お互いに口にはしなかった。でも、何処かでお互いが、同じ軌跡を辿った事を理解していた。だから、危ういながら成り立った関係だった。
 
 因みに彼女とは、言葉を用いずに会話をする事が多かった。僕が論理的に滅多打ちにされる、またフランス語で詰られる外に、声を聞く機会はあまりなかった。僕は彼女を見れば、何を考えているか殆ど分かったし、彼女も僕に対して同様だった。

 話を戻そう、と言っても、ほぼお終いだ。背の高い、外国の血が入った彼女は、仕方なく服装も大人のようで、高校生に見えたかも知れない。

 知らない学校の、フェンスの裏で。
「女の子みたい、ずっとそのままでいてね」
 彼女は私の唇から離れながら、小さいものの、強い調子で言った。

 何故か二人共、止めどなく泣いていた。

 ところで、彼女の母親はどう見ても日本人だった。

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