2024/05/07


昨日のゆる言語学ラジオの話が色々飛んだりしてた。

トピック同時並行で文章書いたりするんだけど、心の絵の部分から、この柄の部分はこの表現で出せる、じゃあこの部分もおんなじ方法で取り出せるとかやってるかも?

めっちゃ日記を読み直して訂正しながら文章を紡ぐ。あまりにも気になってしまうのは自分の感情に不安があるのかも。私はこうでなければならないを日記に求めてる気がする。窒素固定みたいな。統一性、一貫性をもたせようとしてる。「私はこういう人間である」からずれてることが怖い。

どっちの思考者であっても、絵画化する・言語化するのは器用さがいる。文字→言語化が得意とは限らん。同様に絵→絵画化が得意とは限らない。文字→絵/絵→文字が得意な人も絶対にいる。

私は薄モザイクの写実で映像が流れるけど、友達は全デフォルメらしい。人間もキャクターに置換わる。そんな違いあるんだ。感情が抜け落ちるのはまあ同意かな。流石に他人の気持ちは作れん。

歌作ってる人たちはどっちの思考者か
人によりそう。ビジュアルシンカーなら、絵画を切り取る。らららで完結する藤原基央はそんな感じがするね。らららで生まれる絵を彼は見ているしそれを聞き手に想像させようとしている。彼はそうだと思う。
音楽理論バチバチのひと、そこをずらす人、パズルとかやっちゃう人は言語。ピノキオピーとかフロクロさんとかそうちゃうか?と感じるなぁ。
いやでも彼らも絵画っぽいと言われたらそうなんだよなぁ。わからん。

もう一人は別に絵が浮かばんと言っていた。たしかに彼女は言語化得意やな。ちゃんと何を思ったかを明確に言葉にできる感じがする。言葉を持っているからそれをちゃんと引き出している。

言葉を引き出すとか、知識を引き出すといったときに自動出納機みたいな風景がパーと広がってそこから言葉のパネルを取り出している映像がお前らは見れないなんて。こんな脳内おもしろいのに。かわいそうやな。

わたしが言い渋っているとき、まじで脳内の絵を提示したい!と思うときすごいある。絵をかいて出力できるかは別だけどね。お前が脳内に入ってこい!とおもうよ。、

ゆる言語学ラジオの話終わり。


友達の話を聞いていた。強いやつだった。がんばれ。手綱頑張ってひいてな。幸せになってほしい。 性欲を人間に抱いたことがなければ、性欲を向けられるのも嫌だという人間、生きにくそうだ。それ以外のところが好きなら性欲を混同させんなよってけっこう酷な感じもする。
好きな人間なら向けられたらそれなりに嬉しいから、そこの感覚は理解できないかも。 彼女は自分を大切にしてるようでしきれてないから、ものとして扱わないでほしいみたいな欲求があるんだろうか。

意外と人間ってセフレがいるらしく、信じられない。性というものが軽く扱えるんだなぁ。多くの人間って。

帰ってきてすごいしんどくなってしまったのは母性の発露先がないから?という仮定。
かなり仮定。母性を暴力性と書き下すのはかなりヘルシーではない。眠いから。

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