岸田劉生「麗子像」を観て

初稿 2023年5月25日
著者 douki

 山田五郎さんのYoutube番組「オトナの教養講座」で、岸田劉生が、自分の娘、麗子の絵をいつからか描かなくなってしまった、その理由を、麗子の成長に伴う父娘関係の変化、思春期になった麗子がモデルになるのを嫌がったため、と言っていた。けれど「幼い麗子にあった純粋さは、12歳にもなった女には、もうない。同じ体の向き、同じ顔の向き、同じ口元をしても、その笑顔は、体の成長と共に複雑になり、隠し事や嘘、我が身可愛さ、男を揶揄うような大胆さ、などが見え隠れするようになった。
 12歳は、女にとって、肉体的美しさの盛りだ。しかし、その内では、別のものが芽吹いている。娘の絵を描くということは、そういった女の内に隠した部分を、何度も何度も指で嬲るように、娘の中からほじくり出すということだ。麗子がまだ可愛らしい蕾であった頃、それは、水遊びの跳ね返り、子猫の甘噛みのような微笑ましいものだった。ああ、開いてしまった蕾。花弁の奥には、自分の知らない何者かが、もうすでに、潜んでいるかもしれない。いつか、それが、自分の前にデロリと転がり出て来て、我が身に刃を突き立てるのではないかと思うと恐ろしい。
 麗子の絵を描くことは、澄んだ水と戯れるような、心地よい、安全な行為ではなくなってしまった。」と、麗子を描き出すためには、彼女の中のデロリとしたものを掻き出す必要があり、彼の中の麗子を保全するためには、麗子から離れるのが一番だということに気づいたから、ということはないかしら。(おわり)

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