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意識と「教師あり学習」

 意思決定とか、意識というものは、自分が「行おうとしたこと」と「行った結果」のペアの記録なのだろう。いわば、教師あり学習の教師データ。これがあるから、新しい状況における結果の予測ができ、実際の結果との「誤差」を測定することができる。

 そこから、次の機会に適用する予測方法を修正できる。その繰り返しから、副次的に経験の「束」としての自己、効果の及ぶ範囲としての自己が形成されたのだと思う。

 しかし、この説明を因果関係のように説明するのは適当ではない。淘汰圧は予測方法を修正する方法というメタ方法の実装部分に作用しているのだが、同時に、その淘汰圧のかかった実装が、自己意識という直接には淘汰圧の作用しない動作を生み出したのだと思うから。

 いわば、「行おう」という意識と、「行った」行動の間には、相関関係があるだけ、あるいは対応関係があるだけで、それぞれが、予測現象という交絡要因の結果だと思われるので。


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意識から、ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか」に連想が及んだので、コウモリ絵画ということで、リチャード・ダットの「眠るティターニア」にしてみました。