見出し画像

隠ぺいされてこその「文化資本」

ブルデューの文化資本には、操作的定義がなく、具体的な計測方法、つまり個別要素を積み上げた総量を個人間で比較する方法が明確に定められていないので、「使えない概念」なのではないかと思っていた。
しかし、ブルデューは、これらの資本は象徴化され、それが存在していることを認識されない形で知覚されていることに価値があると考えていた。「隠ぺいされている」が故に、意味があるのであり、「あからさま」に計測された瞬間に階級を構成する威信として作用しなくなる。文化資本とは、一種の「オーラ」(ベンヤミンの「アウラ」)である必要があるということなのだろう。