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「将来世代への負担の先送り」って、非科学的な議論は、もう止めよう

 MMT理論によって、公的支出の財源として、税と公債(含む、信用貨幣の増発)の議論が盛んになっている。

 こうなると、またぞろ、いわゆる「国債による負担先送り=世代間格差論」と両者を結びつける議論が繰り返されて、あきれるばかりである。
 この論法の「落とし穴」を生み出しているのは、サミュエルソンの生み出した代表的家計を設定しての「世代重複モデル」による分析の適用範囲を無節操に拡大してしまった結果だ。
 じっくり考えて欲しいのであるが、現代の科学技術においてタイムマシンがある訳でもないので、将来生み出される材やサービスを現在消費できるはずかない。

 では、「現代の世代が将来の世代の負担で便益を享受している」という言質は、何を意味しているだろうか。
 タイムマシンがないのだから、将来世代の労働成果を現在の我々が享受できる訳はない。
 とすれば、将来世代にとっての「負担」とは何か?
 つまるとこころ、財政の支出自由度が狭まるというだけに過ぎない。
 つまり、公債の償還額の歳入に対する割合が増えると、裁量的歳出の選択の幅が小さくなるということは確かだ。しかし、これ以外の弊害は、突き詰めて考えてみると、存在しなのではないか。

 繰り返すが、この世にはタイムマシンは存在しないのだ。
 将来の労働成果を現在享受することはできないのであって、現代世代が享受できる便益は、現代世代の労働成果(及び実物資本という形で蓄積された過去世代の労働成果)であって、将来世代の労働成果でない。マクロの実物経済という視点からは、「世代格差」ってなんだということになる。

 勿論、公債の累増が待ったく問題ないと言っているのではない。
 公債とは、公債を購入できる金融的な富裕層が、税負担から資金の償還を受けるものである。この「金融的な富裕層」とは、現時点において労働力を豊富に提供した者ではなくて、過去・現在の購買力配分のルールの結果、購買力をなぜか相対的に多く保有している者にすぎない。
 そういう者に、現在の労働成果である法人税や所得税によって徴収された資金が配分されるというのは、逆進性を持っている蓋然性が高い(勿論、公債保有者が年金基金等零細資金を集合させたものである場合には成り立たない。また、税金が資産課税によって主として賄われている場合にも議論が異なる)。

 公債によってファイナンスされる資金の使途が、不平等感を涵養するような使い道になっている場合にも適当とは言えない。例えば、年金の場合に問題になるように、国民年金について一般会計繰り入れでファイナンスしており、結局、この繰り入れを公債でファイナンスしているが、国民年金を保障される人たちが、公的資金による助成を受けることを正当化される人々に限定されているのかという疑問がある(こういう点から、生活保護と国民年金を一本化して、負の所得税にすべきという議論が出てくる)。
 しかし、これは公債償還時の税負担をする世代と現在年金を享受する世代の問題ではなく、現在の公的資金の使途としての妥当性の問題であり、公債の問題ではない(仮に、国民年金の財源不足を税や埋蔵金で補っても、問題の本質が年金支給の不平等なのだから、何の問題の解決にもまらないことが理解されるだろう)。

 勿論、反論として、現在の公債発行増により、公債償還時の年金支給のために増税が必要になれば、若年世代から高齢世代への資金移転が起こり問題だという点を上げる者も出てこよう。ここで、「世代」の言葉のすり替えが起きているのだ。
 増税でまかなった資金を年金として支給するというのは、まさに典型的な所得再分配政策であり、所得分配としての正当性を議論すればよく、あくまで公債償還=増税時における年齢格差であって、公債発行時の社会が、公債償還時の社会を搾取しているのでもなんでもない。
 そもそも、何度も言うが、タイムマシンが存在しないのだから、実物経済として、将来世代を搾取した、負担を押しつけたりはできないのだ(将来世代の生産性向上のために現代世代が実物資産を残すことができるが)。

 だから、公債発行については、それが所得再分配にどういう影響を及ぼすかという厚生経済学的規範的議論があり、ごく子細な問題としては、公債償還時の歳出自由度を欲する人にとっての「支配欲求」の問題はあるかもしれないが、喧伝される「世代間格差」なんてものは存在しない。
 それは、サミュエルソンモデルが将来世代への資源移転、つまり現在の効用のために消費するか、将来の生産性のために投資するかによる経済効率性の違いを論証するレトリックとして構築した重複世代モデルの過剰な利用だ。
 債券を加味した世代重複モデルの使用というのは、クルーグマンが編み出したベビシッターモデルのように貨幣の効率性と限界を巧妙に説明するようなモデルに限定すべきだろう。
 いわんや、子育て支援財源論の議論に、世代間負担の論法を持ち出して、増税を求めるようなロジックは極めて危険なファシズムだと思う。