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保育「領域」の実在性を統計学的、分析哲学的に考えてみると

領域と因子分析

 「保育」という活動分野において、目標とされているのは、子どもの安全で健康的な生活の確保となる「子どもの充足」(いわゆる療育)と子どもの成長をサポートする「子どもの発達」(いわゆる教育)ということになる。
 後者の「子どもの発達」を、21世紀の20年代において、ある程度、科学的、「客観的」(これは、エピソード記録の賞揚の背後にある現象学的に発達を記述しようとする性向とは異なるという意味合いを含んでいる)に把握する場合には、「尺度」を用いた技法となるであろう。
 
 この尺度を用いて分析して、保育指針でいう「領域」を析出する場合、適用させる手法は、因子分析ということになる。この因子分析という心理学的分析手法は、潜在因子が存在し、潜在因子自体は観測できないものの、潜在因子との因果関係で観測可能な「発達」と認識可能な行動が顕現するという存在論的な「仮定」「世界観」が存在している。こういった世界観の背景にあるのは、心理学における(新)行動主義であり、知能指数といった発想はこのような仮定、世界観の表れである。

統計量の実在性

 この因子分析を発達という事象の解明に適用できるということの哲学的基礎を解明するためには、次の2つの前提を吟味する必要がある。

 1つは、「統計量」というものの実在性である。因子分析をする場合には、実測データから因子負荷量等の各種の統計量を計算することになるが、この統計量とは、実際に「存在」するものなのか、存在する統計量と存在しない統計量の区別があるのか、存在すると考えることのできる統計量が備えているべき条件とは何かということの吟味が必要である。これは、最近、明示的に意識されるようになった「統計の哲学」という分野の議論になる。

 勿論、関連するものとして、「確率とは何なのか」を巡る頻度主義とベイズ主義の対立という形で議論の積み重ねがあるところであるが、近時の機械学習の勃興などの元で、統計的に処理された結果の数値というものの実在性(もっと忌憚なく言えば、信憑性)についての吟味のレベルが上昇しているようである。

領域の因果性とは?

 2つめは、「因果性」という概念の意味やその実在性についてである。因子分析は、潜在因子が観測可能な事象を生み出すという因果関係を前提として存在している。近時、上記のような「統計化」の元で、統計的因果推論についての研究が格段に進み、また、リスク社会化を背景に科学的知見と帰結との間の因果性の存在についての見解が広く議論されるようになっている。

 因果性を巡る議論は、古代ギリシャ哲学のころからなされている分野ではあるが、発達を見出す「領域」を因子分析という手法で導出することは、その潜在因子と観測可能な事象との間の「因果関係」の存在が、どこまで確実なものなのか、逆に、どのような条件のもとで、因子分析の結果としての潜在因子が、「因果関係」の基点として正当化されるのかという「条件」論を見直す必要があると思われる。

 この議論は、「因果性」一般の議論と、領域固有の因果性という2段構えの議論の深掘りを必要としている。

人間の変化に関するパラダイム転換

 さらに、発達領域が認められるとして、その発達という現象そのものの意味についての発想の転換が求められている、あるいは、潜在的に進んでいるという気がする。

 今後の発達、あるいはもっと広く「人間の時間軸上の変化」についての理解においては、頻度主義的なパラダイム、すなわち「バラツキ」は誤差であるという発想から、ベイズ主義的なパラダム、すなわち真の値にも「確率的に」アプローチするものであり、「バラツキ」とは本質的なものだという発想への転換が求められるのではないかと思っている。このような発想の転換は、単に「発想の転換」に留まらず、測定手法や評価手法についての根源的な見直しを突きつけるものだと思っている。

 表層的な個性尊重とは異なる、「評価」ということの認識論的課題を突きつけているのだと思っている。また、これは社会システムの有り様についても、大きな影響を持つのではないかと思っている。


※トップの画像は、因果論つながりということで、デビッド・ヒュームの肖像画にしてみました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:David_Hume.jpg