消費と消化と排泄の日記
4月9日(日)19時に小原綾斗とフランチャイズオーナーの『BAD BOY』のMVが公開された。4月19日(水)にリリース予定の2nd EP『BAD FAMILY』収録曲の一つだ。
どの曲にしても複数回聴くうちにはじめて聴いた時に思ったことを忘れていってしまうため、今思ったことを残しておく。
小説にしても音楽にしても、人の感想を読むと自分の感想が思い浮かびにくくなる(気がする)ので、まっさらの状態で書いておこうという試みでもある。日記を書いたら「脳盗」を聞くぞ!
謎なタイトルは、将来私が「あの内容どこに書いたっけ?」と思った時に探しやすくするためである(もう少しマシな表現があるとは思う)。
言葉にすること
先月書いた中国巡演増加演出の日記を読み返したら、話を出しておいてその後触れていない宙ぶらりんの話題があった。別の話に繋げるつもりだったのに、書いているうちに忘れてしまったのだと思う。
誰かに読ませることが目的ではないため、誤字脱字があろうと、話が飛び飛びだろうと良いのかもしれない。しかしもやもやする。
ビジネス文書を書く際は、こういうことで悩まない。型が決まっているから当てはめていけば良い。noteに綴っている日記はそうはいかないから難しい(日記と呼んで良いのか怪しくなってきているが)。
別に今のままでも良いのだけれど、もっと自分の気持ちを言葉にできたらなあと思っていたら、金田一秀穂先生の記事が目に留まった。少し長いが引用する。
「借り物ではなく、自分の中から湧き出た言葉で書くこと」、「自分の言葉を持ちたければ、とにかく普段から文章を書くこと」という部分が印象に残った。
中国巡演増加演出の日記にしても書くのにかなり時間がかかっている!ほぼ毎日Twitterに投稿しているし、書くこと自体は難しいことではない。noteに投稿している日記のように、ある程度まとまった文章を書くことや、自分の感じたことを書くのが難しい。うまく言葉が見つからない。
金田一先生の記事を読んで、とにかく書いていくしかないのだと思った。
いや、そうだよ。書くことを水泳に置き換えて考えてみると、私は全然練習していないのに「タイムが縮まらない!」って言っているようなものだ。
「書くこと」や「話すこと」は誰でもしているからこそ、誰でもできるって思ってしまいがちだけれど、練習しないと上達しないのだ。当たり前のことに気付かせてくれて感謝である。
読書が好きだからといって語彙力や表現力が身に付くとは全く思っていないものの、言葉選びに困った時にどこかで読んだ言葉や表現に頼っているかもしれない。それが自ら咀嚼して消化した言葉や表現なら良いと思う。そうじゃないなら使うのはよそうと思う。線引きが難しいけれど。あと、「人口に膾炙する」とか「久闊を叙する」とか、かっこいいから使いたくなるけれど。
消費と消化
新曲がリリースされるとたくさん聞きたくなると同時に、たくさん聞くのはもったいないという気持ちも起こる。
大好きな映画『千と千尋の神隠し』を一年に1~2回しか見ないようにしているのと似ているかもしれない。
この日記を書いている時点で『BAD BOY』は3回聴いた。
作品を消費するように楽しむことに少し抵抗がある。
友人との話題についていくため、何にでも精通している自分でありたいため……理由は色々あるだろうが、そんな風に作品を消費したくないって思ってしまう。
「最近のヒット曲はイントロがない」なんてニュースを目にしたことがある。イントロを短くしないと、Spotifyなどのストリーミングサービスでスキップされてしまう=聞かれなくなってしまうからだとか。
ファスト映画という、ストーリーを10分程度にまとめて解説する違法動画がある。数年前から、YouTubeにショート動画を投稿できるようになった。時代は、どんどんタイムパフォーマンスを求めてゆく流れなのかもしれない。
念のために書いておくと「作品を消費する」行為が明確にあるわけではないため、例示した行為が作品を消費していると主張して非難したいわけではない。私の受け止め方の問題というか。
先日、久し振りにミヒャエル・エンデの『モモ』を読み直した。児童文学の名著であるが、大人になってから読むと感じ方が変わる。子供の頃はモモと時間どろぼうの戦いと捉えていた気がするが、大人になった今読むと、時間の使い方について向き合わされることになる。
時間どろぼうのいない社会は理想郷で、現実はそうも言ってられないよって気持ちもある。まずは月給1億くれ。
でも時間に追われるように日々を過ごすと、失ってしまう何かがあるのは感じる。
ここまで書いて村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の描写を思い出した。
同じ一時間でも、通勤時の満員電車の中で本を読むのと、ソファにゆったり座って猫と一緒に本を読むのとでは全く違う。選べるなら後者の生活を選びたいけれど、現実は通勤電車で読む時間も多い。
どうしたって生活のために働く必要のある私は、限られた可処分時間の中でやりくりするしかない。そういう中でどうやったら作品を消費しないことができるのだろう。
最近、朝の準備をしたり、掃除をしたりしながらYouTubeの動画を見ている(聞いている)。ながら作業で効率は良いが、あまり記憶に残らない。できればYouTubeを見る時はYouTubeだけ見ていたい。
殆ど人がいない残業中、音楽を聞きながら仕事をすることがある。好きな音楽を聞けることはうれしい反面、やっぱり作品を消費しているようでもやっとする。
でも音楽を聴きながら楽しく料理したり、気持ちよく部屋の掃除をしたりすることは消費しているとは思わない。映画の挿入歌みたいな感じ。人生のいろどり。
ここまで私の日記を読んだ人がいたら、「何が違うの」って突っ込まれる気がしないでもない。私も分からなくなってきた。
金田一先生の記事にあった「紋切型表現に逃げ」るのは、言葉を消費していると思う。一方、へたくそでも自分の言葉で書くことは言葉を消費していないと思う。
たまに偉人の名言を引用して何か言った気になる人がいる。名言を引用すること自体は構わないが、その言葉を何の咀嚼もせずにただ引用しているだけだから言葉が宙に浮いていてかっこ悪いなと思う。
これは日記に引用の多い私へブーメランとなって返ってくるかもしれないと思いつつ自戒の念を込めて書いた。
やっぱり咀嚼して消化しないと、自分の言葉にならないのだと思う。本の引用や慣用表現にしても、よく噛んで飲み込んで消化して自分に浸透してから使わないと浮いてしまう気がする。
排泄
『BAD BOY』の感想、いつ書くんだよと思った。
はじめて聴いた時に思ったのが、上につらつらと書いた消費と消化の話だった。長すぎ!
曲の前半で綾斗さんが子供の頃から好きになったものごとが歌われているのかなと思った。綾斗さんにとってそれらとの出会いは「とびきりぶっとんじゃった感動」だったのかと思う。
「無視しないように排泄したいや」って歌詞が一番記憶に残っており、ぶっとんじゃったくらいの感動を消化して排泄=自分の体内を通って、Tempalayや小原綾斗とフランチャイズオーナーの表現に繋げているように思えた。
でも排泄って老廃物を体外に排出する行為を指すから、その解釈で行くと綾斗さんのつくる音楽が老廃物になってしまう……と、一人でわたわたした。
一旦それは置いておいて(何か思いついたら別の日記に書こう)、排泄には消化という行為が欠かせない。綾斗さんは見たり聞いたりしてきたものを、自分の中でちゃんと消化しているのだと思う。だから名言をただただ引用する人みたいに言葉が上滑りせず、聞く人の心にすっと入ってゆくのではないかと。
あと「無視しないように」って入っているのが良い。
歌詞にする=そう思っているとは限らないと分かっていても、「無視しないように」って姿勢が好きだなって思う。
歌詞にする=そう思っているとは限らなくても、考えたことのないことは言葉にできないだろうから、少なからずそう思ったことはあるんじゃないかなって思うのだ。
私が小原綾斗とフランチャイズオーナーのライブをはじめて観たのは2022年3月26日の「IMAIKE GO NOW」で、その時のツイートに「小原綾斗と~の曲は、なんだかより綾斗さんの内の内から出ているような気がしてしま」ったと書いてあった。
『おかしな気持ち』や『おっぺえ』に続き、『BAD BOY』もそんな気持ちになる。Tempalay以外の表現をしてくれてありがとうございますの気持ちが尽きない。
『BAD FAMILY』とっても楽しみに待ってます。明日も仕事がんばります。