綾斗さんの感動のお話とか
九州弾き語りツアーの感想日記を長々と書いたのに、全くもって書き切ったという気がしない。感じたことはもっとたくさんあるはずなのに。
それに、福岡公演(第一部)で印象的だった感動の話も書き忘れている。だから書く。
感動に興味を持った話
本屋さんへ行くと、帯文に「ラスト一行に涙」とか「震えるほど感動する結末」とか書かれている本が並んでいる。
これらの帯文が謳う泣ける要素や、震えるほどの感動というのは、ポジティブな感情を誘発するものだと思われる。生き別れた家族と再会するとか、逆境に立ち向かって何かを成し遂げるだとか。
基本的に「泣ける」って書いてある本を買わないので実のところ分からない(ひねくれものなので、泣けると言われて泣きたくない)。
世の中にはハッピーエンドでないと絶対に無理という人もいるらしい。私は後味の悪い結末や、アンハッピーエンド、違和感の残る終わり方などが好きだ。
「感動」と言うと、一般的にはポジティブな感情に対して用いられる言葉だと思う。感動を得るまでには、いじめや、大切な人の死などネガティブな要素が描かれるかもしれないが、最終的にはポジティブな感情が残る作品に対して「感動」という言葉が用いられる気がする。
恐ろしくて夜も眠れないとか、苦しくて身が引きちぎれそうになるといった、一般的にネガティブとされる感情が残る作品も好きな私は、どうしてこういった感情が残る作品に対して「感動」という言葉を用いないのだろうかと思っていた。負の感動はないのか。
この辺りが感動に興味を持ったきっかけだったと思われる。
『感動』喚起のメカニズムについて
「そもそも感動って何?」と思い、感動に関する本を探すと、戸梶亜紀彦先生の『「感動」喚起のメカニズムについて』という論文を見付けた。タイトルで検索すると無料で読めるし、素人が読んでも分かりやすい。
なぜ、「恐怖のあまり感動した」とか「怒りが爆発して感動した」という表現がないのか?広辞苑によれば、感動とは「深く物に感じて心を動かすこと」であると定義されている。
戸梶先生は、恐怖・恐れを伴った場合や激怒・怒りを伴った場合に感動という表現が用いられないのは、心が動かされても深く物に感じていないからではないかと述べられている。
この論文が発表されたのは2001年で最新の研究とは言えないが、とても面白いなと思った。感動は多くの人が経験したことのある感情なので、自分に置き換えて想像しやすい。
その後も、本屋さんや図書館へ行くと心理学や脳科学の棚を見ては感動に関する本を探している。また面白そうな本があったら読んでみたい。
2/25福岡公演(第一部)の話
本題に入るのが遅すぎて、朝礼で話の長い校長先生の悪口を一生言えないと思う!やっとMCの話を書く。
先日の福岡公演(第一部)で、綾斗さんが感動の話をしていた。以前もどこかで聞いた(読んだ?)ことがあったので、それだけ印象に残る出来事だったのではないかと思う。
子供の頃から異様に花火が好きで、全国どこへでも花火を観に行っていたけれど、最近感動しなくなってしまった。ある日も花火を見ていると、子供が柵にしがみついて食い入るように花火を見ていて、その姿に感動したという話だった。
綾斗さんの中で、「自らが感動する」から「誰かに感動を届ける」に変化した出来事としてお話しされていたような気がする。時間が経ってしまったので記憶違いだったらすみません。またこの話も聞きたい。
前述した戸梶先生の論文で、感動の類型化が試みられており、そのうち「驚きを随伴した感動」は、①ストーリー性のある場合と、②ストーリー性のない場合の2つのタイプに分けられている。
②ストーリー性のない場合とは、「日常という文脈から離れて、ある時突然遭遇したり、ふと気づいたことによって喚起されるもの」とされている。
例えば自然の景観や芸術作品と接した際に喚起されるような感動。荘厳さ、形状、色彩、音色などの純粋な美しさといった感覚的な美に通ずるクオリアに相当するもの。
この種の感動は、幼稚園におけるインタビュー調査の結果から、幼児において最も多くみられる感動のタイプらしい。戸梶先生は、発達的観点から考察すると感動の原型である可能性もあると結んでいる。
幼い子がストーリー性・文脈を理解した上で感動するというのは直感にも反するし、感動を覚えるとしたら感覚的なものだろうなという気もする。
でもこの論文を読まなかったら、大人である今の自分ベースで考えがちだったと思うので、幼児の感動という視点を得られてとても良かった。
子供の目に映る世界は全てが新鮮だったのだと思う。ビニール袋に入れたお菓子と紙と鉛筆を持って、おばあちゃんの家の近くを地図を書きながら探検していたことを思い出す(ゲームの世界樹の迷宮みたい)。行ったことのない場所に足を踏み入れるそわそわした気持ちをほんの少しだけ思い出すことができる。
はじめて行く場所ではGoogleマップ片手に歩くことが当たり前になった今はあまり感じなくなってしまった。
綾斗さんは、小杉湯のライブで幼少期のずっと超えられない感情を追い求めているというお話をされていた。それは、美しさや荘厳さといった感覚的な感動だったのだろうか。
戸梶先生が、幼児において最も多くみられる感動のタイプということから感動の原型である可能性もあると指摘しているのが非常に面白い。綾斗さんにとってずっと超えられない感情というのは根源的なものである気がするので。
『GHOST WORLD』で「感動って枯渇しちゃう」と歌う気持ちが分かる気がする。大人になるにつれて知っていることが増えてゆく。世界はだんだんと見慣れたものになってゆく。幼い子が覚える感動を、大人が同じように感じるのはおそらく無理だ。
続く歌詞の「暗中模索してい」るのは綾斗さん自身のような気もする。
花火を食い入るように見詰める子に、幼少の自分自身を見たのではないかと考えるのは話が飛躍しすぎかな。
でも綾斗さんが本当にその子に会えて(見ることができて)良かったなと思う。そして、ファンにいつも感動を届けてくれてありがとうございます。