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Tempalay「ドォォォン!!」東京公演(ファイナル)の日記

ファイナル公演が終わってしまった。もう「ネタバレを含みます」という注意書きをしなくて良いのか。少しさみしい。
Tempalayのライブを観たり曲を聴いたりすると、頭の中に今まで読んだ本のこととか、観た映画、目にした風景など色んなことが呼び起こされる。
だからライブの感想日記と言いつつ、直接関係のないことばかり書いてしまう。多分この日記もそうなっちゃう。

今回行ったライブ

・7/3(月) Tempalay「ドォォォン!!」@Zepp DiverCity(東京)

ライブの感想

『from JAPAN 2』を聴き始めた頃『深海より』はアルバムの曲順を通して聴くだけで、そこまで特別な思い入れはなかったと思う。
大阪公演へ行った際、是枝裕和監督の『怪物』を観た。なぜだか湊と依里のようだなと思って、曲と二人を重ねて聴いた。照明演出もすごく良くて、音だけじゃなくて空間を含めて『深海より』だった。
何度もライブで聴いて、感じて、考えるうちにゆっくり好きになっていった気がする。

「人間は考える葦である」と言ったのはパスカルだったか。広大な宇宙と比較すると、人は葦のようにか弱い存在だ。でも人には考えるという偉大な力がある。
教師から生徒へ向けて、親から子へ向けて「よく考えなさい」と、言われる。考えることは、良いこととされているのだと思う。
私は、たまに何も考えない人になれたら良いのにと思う。考えないで、感じるだけの人になれたら良いのに。ブルース・リー?ところでBREIMENの曲では一番『D・T・F』(Don’t Think, Feel.)が好きだ。

昨年12月から今年2月まで、綾斗さんの弾き語りライブを観る機会がたくさんあった。ずっと追い求めている何とも言えない感情があるというお話をされていた。
人には一生をかけて執着してしまうような、そこまでいかずともなぜだか気になってしまうようなものがあるのではないかと思う。私にとってそれは記憶と感動のような気がしている。
もし私の日記を毎回読んでいる人がいたら「こいつはまたこの話をするのか」と呆れるくらい、記憶と感動の、その周辺をぐるぐると歩き回るような話しかしていないと思う。
ライブや映画、小説でも「感動した」って感想を述べる人が多い。私も使っちゃう。でも「感動した」ってどういう感情を指し示しているのか、たまに分からなくなる。

「考えないで、感じるだけの人になれたら良いのに」と同じ引き出しに「言葉ができる前の世界に生まれることができたら良いのに」が入っている。
人は言葉を用いないと思考できないと思う。非言語の思考ってあるのだろうか。数学の問題を解くことは非言語の思考?でも、それは数式という言語を用いているだけのような気がする。純粋な非言語思考って何だろう。
言葉ができる前の世界に生まれたら、どんな感情を抱くのか気になる。
びっくりした時に身体がビクって反応するのと、「びっくりした」という言葉には距離がある。言葉にした瞬間、言葉を認識した瞬間に違うものになってしまうような感覚。「感動した」と言葉が浮かんだ時、それは感動した心身の反応とは別物になってしまう気がする。
考えないで感じたい、言葉がなかったら考えなくて済むかもしれない。そういう願望なのかと思う。
感じることって、熱々の鍋に触って手を引っ込めるような脊髄反射に似ているのかなあ。(言葉で)考えることってそうじゃないから、「感じる」と「考える」の間に距離を感じてしまうのかもしれない。

Tempalayのライブにはできるだけ行きたいって思っていて、今回のツアーも仕事の都合が付く限り行った。好きだから行く!それでいいじゃんって思う。でも私はちゃんとその場その場で感じられていたのか、ほんの少し不安になってしまう。
感じることと、考えることの間に薄い膜がある。考えすぎる性格だから、どんどん感じることから離れてしまうのか?
そもそも二つは別物なのだろうけれど、感じて、感じたことを言葉で考えたことがうまく繋がらない。同じ気持ちの人に出会えたら良いのに。自分ではうまく表現できなくてもどかしい。
ライブを観て純粋に感じられる人に憧れる。私はいっぱい考えて、自分が本当に感じたことが何なのか分からなくなっちゃっているのかもしれない。
言葉と気持ちの距離が近い人に憧れる。その一言が自分の気持ちと相違なければ、ライブの感想が「感動した」の一言でも良い。
日記を綴っていて、全て書ききったとか気持ちの整理ができたって気がしないのは、自分の気持ちを表す言葉が見付かっていないからかもしれない。言葉を見付けられたら、薄い膜は消えてなくなるのかな。
感じることや考えることにまで疑いの目を向けてしまうような私がライブを観て良いのだろうかって、いや、チケット代を払ってるし良いのだけれど(現実的)、こんな疑問符だらけの「ライブを観て感動した」って言って良いのだろうかって謎すぎる不安を抱えている。

考えすぎ病の私は、『D・T・F』の「論や証拠に追いつかれぬように魂を 燃やしていたい」って歌詞がすごく好き。
「感動とは、脳内で物質Aが分泌されることだ」とか分かっていたとして、ライブを観ている間、あなたの脳内で物質Aが分泌されていたから感動していましたねって言われても絶対「違う、そうじゃない」ってなる。
あれこれ論じたり、事実を求めているんじゃないんだ。そういうんじゃなくて、ただただ感じて魂を燃やしていたい。今まで書いていたことは「魂を燃やせているのか分からない」ってことなのか。
「落ちる滝見つめては 源流探す 知りたいのならば先ず 打たれて如何」も好き。とりあえず考えてしまうタイプだから、つべこべ言わず滝に打たれろって思う。
祥太さんが『D・T・F』リリース時に「めちゃくちゃ考えて作りました。皆さんはただ感じて下さい。」と、コメントしていた。
考えずに、ただただ感じていられるような心地良さをメロディーで表現できていることが、本当にすごいなと思う。最初から歌詞が良いなって思ったんじゃなくて、しばらくしてから「こんなこと言ってたんだ」って知った。
「めちゃくちゃ考え」たって言葉にしてくれるのもうれしいな。
『タイタン』の内匠先生が、「今"何も思わないと思った"」って自分で自分を認識することが大切って言ってた。悩みや不安と表現するのもなんか違う、このよく分からない気持ちがあるということをとりあえず認識しておけば良いのかなあ。

ライブのMCで綾斗さんが、各公演がファイナルかのように言う人もいるけれど、最初の公演から最後の公演まで全てが繋がっていて今日がファイナルなのだと仰っていた。
各公演がファイナルって言う人は、毎回ファイナル公演だと思ってライブに全力で臨む、力を出し切るという意気込みを言葉で表現しているのかと思う。
ファン側からしてもツアーファイナルって特別感があるし参戦したい。各公演に来てくれるファンに対して、今日が実際のファイナル公演ではないけれど、それくらいの熱量でやっていきますよという意思表明なのかと思った。
それぞれがファイナル公演という捉え方は、そこで完結してしまうから点と点が独立している。どちらが良い/悪いって話ではないのだけれど、綾斗さんの捉え方は各公演の点と点が線で結ばれていて良いなと思った。

中学生か高校生の時に、私は積み木崩しばかりしているなあって思ったことがある。小学生の頃から集団生活が苦手でちゃんと通えていない時期があり、中学生になったら1からやり直してがんばる、次こそはって意気込んだ。
中学生になり心機一転、一つ一つ積み木を積み上げてゆくのだけれど、歪な形にしかならなくて、それが理想の形とは違いすぎるから積み木を崩すようなことをずっと繰り返していた学生時代だった。この頃は今より完璧主義者度(とは?)が高かったので、理想から程遠い自分を許せなかった。
積み木を崩すことは、点と点をバラバラにするような行為だった。でも、私という人間は過去から今までずっと繋がっているから切り離せるものじゃないんだよな。
過去の自分から今の自分まで無数に存在する点を繋がっていると認識するのが苦手だったので、一本の線みたいに捉えられる綾斗さんのMCに良いなって思ったのだと思う。
私が長大な時間や太古からの繋がりのような概念に惹かれるのは、自分自身を点で捉えて来たが故の憧れみたいなものが含まれている気がしてきた。
ライブ中にメモしてないから、そんなこと言ってなかったらどうしようっていつも日記を書きながら不安になる。

『深海より』にも長い時間を感じちゃう。
この前、クラゲに会いたくて新江ノ島水族館へ行ってきた。新江ノ島水族館にはクラゲファンタジーホールと、クラゲサイエンスという研究コーナーまであるのでクラゲ好きにおすすめの水族館。
水族館に「クジラの骨が沈む場所」というパネルと模型の展示があった。すごく良かったので載せる。

クジラが一生を終えると海底へと沈んでゆきます。海底に沈んだクジラは、カニやサメなどによって肉を食べられ、大きな骨が残ります。この骨は脂を多く含み、やがて腐敗して硫化水素が発生します。ゴカイの仲間のホネクイハナムシは、この鯨骨のエネルギーを利用してくらしています。これらの生物を鯨骨生物群集と呼んでいます。

新江ノ島水族館「クジラの骨が沈む場所」
クジラの骨が沈む場所

一生を終えたクジラの肉が(肉って表現になるんだ)、他の生き物に食べられるのは想像できる。骨までもが他の生き物のエネルギーになってゆくのかと思った。
深い深い場所。この展示を見なかったら想像しなかった世界。巡る命に畏怖のような気持ちが湧く。

なんとなく深海ってどんな音がするのだろうと思って調べてみたら、すごく心地良い音がした。Audio-TechnicaのHPで聴くことができる。
ここ数年間で「HSP」って言葉をたくさん目にするようになって、「ミソフォニア(音嫌悪症)」という言葉も広まってきた。子どもの頃から苦手な音が多かった私はこれだったのかって腑に落ちる感じがした。
雨の音や、森の音、焚火の音、波の音……自然界の音は大好きで、大阪公演の日記に書いた坂本龍一さんの『BTTB』に収録されている『uetax』のような水の音も好きだ。
ホワイトノイズが友達でイヤホンとヘッドホンが手放せない私にとって、深海の音も心地よかった。

音と言えば、開演するまでAAAMYYYちゃんのお腹の中に赤ちゃんがいた時の音が流れていた。TOMOさんが説明してくれた。調べたところ、胎内音って言うらしい。ヘッドホンでじっくり聴けたわけじゃないけれど、深海の音みたいにすごく心地良かった。
YouTubeやSpotifyでホワイトノイズを検索すると、赤ちゃんのサムネイルだったり、「寝かしつけ」って言葉が入っていたりする。胎内音に似ているから赤ちゃんが安心するんだろうな。『uetax』も羊水の音をイメージしたらしい。
クジラの骨の話を読んで思い出すのは、同じく深海にある熱水噴出孔のことだ。熱水噴出孔は生命の起源かもしれないと考えられていて、クジラの骨は鯨骨生物群集という生態系を生み出している。深海の音は胎内音のように心地良い。最初の生命が誕生したのは海ということは分かっているらしい……すごく人と海との繋がりを感じる。
東京公演の日記に胎児を彷彿とさせるセトリだなあとか、Zepp DiverCityから始まり、最後にまたZepp DiverCityへ戻ってくるのが輪廻や胎内めぐりみたいって書いた。でもまさか最後にAAAMYYYちゃんのお腹に入るとは思わなかった(TOMOさんが、「皆さんは今AAAMYYYのお腹の中にいます」って説明されていた)。
Tempalayの音楽から得られるイメージや思考は、今まで読んだり見たりして点在していた概念をゆるやかに、有機的に結び付けてくれるようで、本当に知ることができて良かったなあと思う。
そういえばこの日のメンバー紹介も、綾斗さんが夏樹さん、夏樹さんがAAAMYYYちゃん、AAAMYYYちゃんが綾斗さんを紹介する循環(?)、円環(?)スタイルで良かった。これも繋がって、ぐるっと円になってるって思った。

北海道・愛知・福岡公演は分からないけれど、最後の最後までAAAMYYYちゃんがドォォォン!!したことを説明する綾斗さんはAAAMYYYちゃん呼びで良かった。
1月の小杉湯のライブの時から、綾斗さんは妊娠・出産・懐妊あたりの言葉の違いが曖昧なのではなかろうか……と、思ってしまう。ファイナルでも「AAAMYYYちゃんが妊娠しまして……」って説明されていた。その言い方だと、今妊娠しているって勘違いする人いるのでは!?って思う。
広島公演の日記にも書いたのだけれど、最近言葉の正しさや、思考の正しさを常に求められているような息苦しさを感じてしまう。私だったら言葉の辞書的な意味を間違えないように、他の解釈をされないようにってすごく気を付けちゃう。
「今日はすごい異様な熱気ですね」って、MCで仰っていた。そういうことを言われると「やっぱりファイナルは特別なんだ!」ってファン心理が働くと思う。そしたら続けて「別にどの会場も変わらないけど、全ての公演が繋がってて今日が本当の最後だから」みたいに仰っていた気がする。
なんて言うのだろう、広島公演の日記に書いた言葉を用いるなら透明性に与しない姿勢というか、他者に迎合しないところというか、良いなあって思う。「与しない」って言うと能動性が感じられてなんか違うような気もする。これもあまりうまく説明できない。
綾斗さんが「AAAMYYYちゃんが妊娠しまして」って説明をしたからか、AAAMYYYちゃんは「生まれました!」ってフォロー(?)していたような気がする。そしたら他の皆も「『生まれた』って良いね」みたいな話になった。どんな話をしていたか忘れちゃったけれど、すごく良かったなという空気感が記憶の中にほんの少しだけ残っている。

とはいえセットリスト的にも、展開的にも、やはりファイナル公演は特別だったと思う。
前半戦でベースを弾いていた榎元駿さんが2階席にいらっしゃって、ライブの途中で綾斗さんに「あとで降りてきて」と言われるも、「無理でーす」って会話していた。
だから来られないのかなあって思っていたら、アンコールで来てくださった。Tempalay公式サポーターの三名がステージ上に!なかなか見られない光景だ。
アンコール1曲目の『GHOST WORLD』を駿さんが弾いて、2曲目の『Austin Town』を祥太さんが弾いていた。
綾斗さんが「もう本番は終わったから」って仰ったように、アンコールのステージは和やかな雰囲気で、綾斗さんも途中の歌詞がほにゃほにゃしていたしすごく楽しかった。
『Austin Town』を歌う前に「今までツアーで一度もやってない曲をやります」って前フリがあったから、すごくワクワクした。たまらなく良かったなあ。
『GHOST WORLD』も、やっぱり好きだなって思った。そして駿さんのベースで聴くのがはじめてだったからうれしかった。その間、祥太さんはOCHANさんの横でギターを弾いていた。
続・ゴーストツアーで、『GHOST WORLD』のイントロを演奏する時、綾斗さんがスクリーンに映し出されたMargtと神戸さんによる映像を眺めていた姿が思い出された。
暗い水族館で水槽を眺める人の後ろ姿を見るような、そういう良さがあったことも思い出す。

ライブを観ている時は「これは忘れたくない!」って瞬間がいっぱいあるのに忘れちゃう。
どの曲か覚えていないけれど、綾斗さんが歌詞を間違えたか、飛んじゃったかで、AAAMYYYちゃんの方を見てべーって舌を出してたのがかわいかった。
確か『Last Dance』でAAAMYYYちゃんが歌詞を間違えちゃって(あまり記憶に自信がない)、綾斗さんがAAAMYYYちゃんの方を向いて「そのまま続けて」みたいに視線で合図していたのも良かった。
視線と言えば、祥太さんは目が大きいので多少ステージと遠い場所にいてもどこを見ているのか分かる。やっぱり他の四人のことをすごく観察していらっしゃるなあと思った。結構夏樹さんの方を向いて視線を合わせて演奏している。
『大東京万博』で綾斗さんがステージ前方に来てギターを弾く箇所があって、ステージ中央へ戻る時に祥太さんがはちゃめちゃににこにこの笑顔でお迎えしていたのはあまりにも印象的だった。広辞苑の「笑顔」の項目に載せてくれ。
最終日の祥太さんとOCHANさんのヘアスタイルも良かった……全公演で一番好きだった……髪の毛の短いAAAMYYYちゃんも左右を結んでたから三人でお揃いっぽいのも良かった。

どこかのMCで綾斗さんが「終わり良ければすべて良し」って仰ってた。私も死ぬ時に「いい人生だった」って思って死ねれば、途中はボロボロでも良いかなと思えてきている(死ぬ話の文脈ではないだろう)。
そんな今日は綾斗さんの誕生日だ!おめでとうございます。こういう時、生まれてきてくれてありがとうございますって気持ちになるし、言いたくなる。今後、綾斗さん、AAAMYYYちゃん、夏樹さんに対しては『Booorn!!』してくれてありがとうございますってなりそう。
ツアーおつかれさまでした。本当に行くことができて良かった。
全くまとまっていないけれど、今日投稿したいのでする!また書きたくなったら、別にライブ直後の日記じゃなくても書けば良いんだ。

ツアー終わっちゃったのさみしくて精神が滅びそう。そして、試験勉強と仕事という現実が暴力的すぎて嫌になっちゃう。でもめそめそしてて不合格だったってなるのは嫌なので、明日から一発合格目指して勉強をがんばる!(※ただし、試験日時がTempalayのライブと被った場合を除く)

精神滅亡防止策として作ったお菓子のくじ引き

追記(2023/9/17)

無事に試験に一発合格した!(2種類)