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Tempalay『NEHAN』の感想

困惑。当惑。『NEHAN』というタイトルからは、「動」より「静」の印象を受ける。だから予想に反した激しめなイントロにうろたえた。更に何と言っているのかさっぱり聞き取れず、「なんだこれは!」となった。
初回であまりにも聞き取れなかったので、『ああ迷路』のように真言でも引用しているのかと思ったら全然そんなことはなかった。日本語だ。

4月17日(水)に『NEHAN』が配信開始され、その日の20時にはMVも公開された。更に4月16日(火)発売の音楽雑誌『MUSICA』に綾斗さんのインタビューが掲載されるなど、連日の供給に溺れそうになっている。
『ドライブ・マイ・イデア』や『今世紀最大の夢』の感動だって、まだまだ受け止め切れていないのに。そんなこと言ったらTempalayを知った日から幸福の供給溺れ続けているかもしれない。溺れ続けて深海で暮らしているよ。

引用について考える

まだMVは見ていないし、『MUSICA』のインタビューも読んでいない。
『MUSICA』は見出し(?)の「万物は流転する」と書いてあるところだけ読んでしまった。それで「タレスだ!」と思い『哲学大図鑑』を確認したらヘラクレイトスの言葉だった。タレスは「万物は水からできている」と考えたらしい。哲学者、○○スが多すぎる。

見出しに哲学者の言葉を用いたり、小説の冒頭で詩が引用されていたりすると「かっけー!」と思うと同時に、たまに「本当に読んだのか?」と疑ってしまう愚かな私がいる。
例えば、エルヴェ・ル・テリエ『異常』の冒頭では荘子が引用されている。

予の汝を夢と謂うも亦夢なり。
――荘子

かっけー!

そんなことを思っていたら、4月18日(木)のオモコロの特集「緊急開催!おまえらインプットどうやってるんだ座談会」で、ダ・ヴィンチ・恐山さんが引用について「あれ読むと『この作者めっちゃ読んでるじゃん』って思いますけど、どうせ読んでないんですから。図書館で適当にかっこいい本を手に取って引用してるだけ」と言ってて笑ってしまった。
原宿さんは「まあ結局、どれだけ読んでるかは外からは見えないので安心してハッタリをかましましょう」と言っているし、というか私の日記も引用だらけだし、これからもどんどんハッタリをかましていこう。

自分の感想を持つことについて考える

加味條さんの今回の記事もすごく面白かったし、私が散々悩んでいることについても言及されていた。

『NEHAN』のMVを見ていないのも、『MUSICA』を買ったのにインタビューを読んでいないのも、作品に触れる前になるべく他の情報を入れたくないからだ。まず自分の感じたことを認識してから、他の情報を入れたい。
まきのさんが映画について、「純粋に自分がどう感じたかを知るには、情報をシャットアウトして公開初日に行くしかないのかも」と言っていた。

私は他人の感想を読むと、自分が何を感じたのかぼやけてしまう。そもそも自分は何も感じていないのではないかと悩んだ時期もあった。
たとえ自分の感じたことをクリアに覚えていたとしても、他人の感想と違いすぎて「感じ方がおかしいのか?」と不安になることもあった。
旧・Twitterに本の記録がてら読書感想文を書き始め、何年かしてようやく、(変な言い方だけど)感想を持つことに慣れた気がする。
このあたりの話でも恐山さんが面白いことを言っていた。先程引用したまきのさんの発言に対して、「私はもう自分がどう感じたかなんて、わからないですよ」、「『みんながどう思うか』しかわからない」と!

宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』は、映画公開前にあらゆる情報が伏せられていた。あらすじも声優もテーマソングも何もかも知らない状態で公開初日に見たとして、純粋に自分の感じたことが分かっただろうか?
「(よく分からなかったけれど、世界的に有名な宮崎駿監督の映画だし)面白かった」みたいな括弧付きの、他人の目を気にした感想ではなかっただろうか?
人が社会的動物である以上、他者を意識しないことなど不可能であり、純粋に「自分がどう感じたかなんて、わからない」、「『みんながどう思うか』しかわからない」のかもしれない……。

と、考えれば考える程よく分からなくなるが、それでも抗いたいので(何に?)もう少し感じたことを書いてゆきたいと思う。

未知について考える

最初に歌詞をさっぱり聞き取れなかったと書いたが、そういえば「未知なる美味しさ」と「意味すらもう死んだわ」辺りは聞き取れた。
未知なる美味しさと聞こえて、平野紗季子さんの『生まれた時からアルデンテ』が思い浮かんだ。

アンディ・ウォーホルの絵は見られるし
ビートルズの音楽は聴けるけど
50年前のスパゲティを食べることはできない。

だから私は本を読む。
知らない過去は未来なんだ。

平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』114頁

「未知」には「未来」と同じ文字が入っているからか、未知なるものは未来にある感じがしてしまう。過去は既知、未来は未知みたいな。
でも何百年も前に描かれた絵画も、遠い昔につくられた音楽も、知らなかったら未知のものだ。「未知」は「まだ知らない」って書くもんね。そんな当たり前のことに気が付く。

何度か日記で「謎がなきゃ生きていけない!」と叫んでいるし、今もそう思う。謎というのは、私にとって未知のものも含む。
家にあるのは全て読んだことのある本とかつまらない。本棚にはまだ読んだことのない本があるべきだ。積読をしすぎるということはない。
大きな謎で言うと「宇宙人はいるの?」とか「ダークマターって何なの?」とか、私が死ぬまでに明らかになってほしい。明らかになってほしいけれど、全く謎がない世界は嫌なのだ。

先日、理論物理学者カルロ・ロヴェッリの『世界は「関係」でできている』を読んだ。
物理学を勉強したことがなくてよく分からないが、原子の中の電子は軌道から軌道に飛び移るらしく、その奇妙な振る舞いが何なのか謎だったらしい。謎"だった"と過去形にして良いのかも分からない。
その謎に多大なる貢献をしたのが若き日のハイゼンベルクで、その着想を得たのは23歳(!?)だったそうだ。

ハイゼンベルクは、電子の運動を記述するのは諦めて、電子が放つ光だけを記述する、つまりオブザーバブル(観測可能量)を基礎に据えて電子の振る舞いを再計算し直した。
これはハイゼンベルクによる日記か何かの引用なのか?計算がかみ合った時の描写が美しくて、読む前は全く想像していなかった感動を覚えた。

はじめは、ひどく不安だった。自分が事物の表面を通り抜けて、奇妙に美しい内側を垣間見ているような気がしてきた。それから今度は、この豊かな数学的構造を――自然がかくも鷹揚にわたしの目の前に広げて見せてくれた構造を――細かく調べなくてはならないということに思い至って、めまいがし始めた。

カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』23頁

こっちがめまいを覚えるような、くらくらするほど美しい描写だ。
印象的な「奇妙に美しい内側を垣間見」るという表現は、第一部のタイトルにもなっている。元の言語の表現は分からないけれど「垣間見る」という少し控えめな表現が良いなと思う。
未知の領域を垣間見た瞬間、どんな気持ち、どんな体の感覚だったのだろう。物理学を理解できたら、この感動をもっと味わうことができるのかなあ。

Tempalayの音楽って、「奇妙」「変」「不思議」といった言葉と共に語られることが多いように思う。
もしTempalayの音楽が耳慣れたものだったら、こういった言葉は出てこないだろうから、常に他と違うものをつくり続けているのだろう。
今まで聞いたことのない作品も、これから生まれるどんな作品も全て未知の作品ではあるが、私にとってTempalayの音楽は何よりも未知度が高い(そんな言葉はない)。
いい意味でTempalayらしさがないと言えば良いのだろうか。「𓏸𓏸っぽい」って言われない。奇を衒って破綻しているわけでもない。常に未知の中の未知を更新し続けている、存在しない表現でないと語れないくらい奇妙で変で不思議、そして魅力的なのだ。

NEHAN(涅槃)について調べる

NIRVANAを「涅槃」と言うのは知っていたが(ロックバンドのおかげ)、どういう意味なのかよく知らなかったので調べてみた。私には『哲学大図鑑』がある!
ゴータマ・シッダータ(釈迦)の項目を開くと、「解脱」に「ニルヴァーナ」というルビが振ってある。解脱と涅槃は別物のような気もしたが読んでみた。

釈迦は、誕生と死と再生という苦しみのサイクルである輪廻そのものを終えることが、この世における生の最終目標だと考えた。
「八正道」という8つの修行を行うことで、人は自我を乗り越えて、苦しみから解放された人生を送ることができる。更に悟りを通して、輪廻する苦しみを避けられるようになる。
そのとき人は自分が「非-我」のうちに身を置いていることに気付き、永遠なものと一体化できる。それが「解脱」(ここでは「げだつ」とルビが振ってあった)の境地であるそうだ。
ルビのせいで「涅槃(ねはん)」の説明なのか「解脱(げだつ)」の説明なのか判然としないが、輪廻という苦しみのサイクルから解放された状態を「涅槃」と思っておけば良いのかな。

「非-我」という見慣れない言葉の説明もあったので、勉強のために書いておく。
釈迦は、私達の苦しみの主たる原因は欲望と期待が満たされないことに起因すると考えた。この欲望を「煩悩」と呼ぶ。
煩悩の主な原因は利己心にある。利己心とは、今日「自我(エゴ)」と呼ばれる自己中心的態度であり、過剰な自己愛のことだ。
煩悩から解放されるには、自分の欲望の対象を断念するだけでなく、欲望を抱く主体である「自己」への執着心を克服しなければならない。どうすればそんなことができるのか?
推論を進めた釈迦は、自我の世界自体が幻想だという解答に到達する。釈迦によれば、宇宙の中には一つとして自己原因(それ自体で自足しているもの)はない。どんなことがらも先行する行為の結果であり、私達一人一人も無常で実体をもたない永遠の過程の仮初に過ぎないのだ。
「自己」とは全体の一部でしかなく、「非-我」であり、あらゆる苦しみはこの事態をきちんと認識できないでいる私達自身の誤りに起因する。

カルロ・ロヴェッリの『世界は「関係」でできている』の話に戻るが、ロヴェッリは量子を理解するために様々な哲学文献を読み、インドのナーガールジュナ(龍樹)に行き着いた。
ナーガールジュナは2~3世紀の人で(釈迦は紀元前5~6年)、空理論を説いたことで有名らしい。ナーガールジュナの主張は「ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものはない」というもので、それはロヴェッリによる「関係によって定まる属性だけが存在する」という量子力学の見方と響き合う。

何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガールジュナは独立した存在があり得ないということを「空(シューニャター)」と表した。
釈迦は、宇宙の中には一つとしてそれ自体で自足しているものはないと考えたそうだし、ナーガールジュナの考え方と近しいものを感じる。ナーガールジュナは釈迦の哲学の影響を受けたのだろうか?(『哲学大図鑑』にナーガールジュナは載っていない)

この世界が錯覚だと悟ることで涅槃、すなわち解放と至福に到達する。ナーガールジュナによれば、輪廻と涅槃は同じであり、いずれもその存在は「空」である。つまり、存在していない。
では「空」だけが実在するのかというと、そうではない。いかなる視点も別の視点と依存し合うときにのみ存在するのであって、究極の実在は存在しないというのがナーガールジュナの考えだ。

釈迦もナーガールジュナも量子について知らなかったに違いない。それが何千年も後の量子力学と響き合うとは不思議な感じがする。ちなみに量子力学には様々な解釈があるらしく、ロヴェッリと異なる理論もたくさんあるそうだ。科学に解釈とかあるんだ。理数系って絶対に答えは一つだと思っていた。
全ては関係によって存在する、究極の実在は存在しないという考えは面白くもあり、「じゃあ私が見ている世界は何なのか……」と、足元が揺らぐような不安も感じる。

『MUSICA』のインタビューを読んでいないから何とも言えないが、『(((shiki-soku-ze-kuu)))』(色即是空)ではじまり『)))kuu-soku-ze-shiki(((』(空即是色)で終わって、更に『NEHAN』(涅槃)を含むような東洋の風を感じるアルバムのインタビューに、なぜ西洋哲学の「万物は流転する」という言葉を引用したのか気になってきた。
西洋哲学の中にも、究極の実在は存在しないといった哲学はあるらしいが、ナーガールジュナほど徹底していないらしい。

歌詞に「涅槃暮らし」とあるが、調べたような意味で用いられているのではないように感じた。世間の流行に合わせたり、周囲と足並みを揃えたりするような生き方から離れた暮らしみたいな。

何回も書いている気がするが綾斗さんの歌詞の、どこか悟りに近いような諦めている視線が好きで(私はそう感じて)、『NEHAN』もそんな感じを覚えた。
釈迦は、煩悩から解放されるには執着心を克服することが必要だと説いたそうだけれど、執着心の克服って諦めることも含まれるのかな。

仕事をしていて「これくらいやってくれよ」とか思う。その後に「相手に期待するから腹立つんだよな」とも思う。
他人に全く期待しない人生は、それはそれで虚しい気がする。でもやっぱり期待するから失望するんだよね。期待しなかったら失望しない。

綾斗さんの歌詞は期待や願望が全くないわけじゃなくて、期待してしまう自分のことは分かっていながら、期待しないことを選ぶような一歩引いた視点がちょっと寂しくて、それがすごく好きなのだ。
AAAMYYYちゃんの歌う「生きてる証ほしい」の諦めきれなさが一番寂しくて好きだ。そして今回のAAAMYYYちゃんパートが良すぎる。AAAMYYYちゃんがここを歌わないでどうするんだって机を叩きたくなるくらいピッタリはまっていて感動した。
ナーガールジュナみたいに「究極の実在は存在しません!」という強強態度ではないところが(ナーガールジュナのこと10頁分くらいしか知らないが)、愛おしい。

早く『(((shiki-soku-ze-kuu)))』と『)))kuu-soku-ze-shiki(((』が聴きたい。インストなのかな。歌詞はあるのかな。
やっぱり謎が、未知があるって良い。想像ができる。余白がある。でも早く知りたい。欲まみれの私は、5月1日(水)を今日も指折り待っている。

※本を読みながら書いたが、間違えたことを書いていたらコメント欄で訂正していただけるとうれしいです。

早く読みたいね。