トゥエンティ+1

全てを放ってしまって、列車に乗って遠くに行ってしまいたい。上野発の夜行列車に乗って、夜明け前の薄暗い日本海を窓の外から眺めたい。

今にも僕のディタラトゥエンティが終わろうとしている。いやそんなものはそもそも始まってなかったのかもしれない。単なるトゥエンティのままだったのだろうか。僕は多分一人で夜明けを迎えられるから。

でもどこかで一人で夜明けを迎えられない自分にもなりたかったとも思っている。20歳で迎える大学2年生。大学生活にも慣れ、最も充実する一年だと思う。次の年からは専門の勉強や就活である。そんな大学生活の頂点に僕たちは20歳という節目を迎える。

学生の持つ、将来への漠然とした不安、しっかりとしたものを自分の中で持てない焦燥感、それを打ち消すように仲間と飲み、騒ぐ。そんなテンプレートのような学生生活にどこか憧れがある。けど、実際はほとんどの20歳はそんなことなど全く考えていない。不安など一切なく、ただ騒いで楽しむことしか頭にないんだろうなと、最近気が付き始めている。そして散々遊んだ挙句、ケロッとしてずっと真面目でしたみたいな感じで就活していい会社に就職していく。おそらく選ぶ側も選ばれる側と同じような学生生活を送っていたに違いない。実際の学生生活をわかっていても見て見ぬふりをする。社会の暗黙のルールみたいなものだ。外面だけで勝手に大手に就職する学生たちを真面目だと思ってしまっている僕は子供なんだと痛感する。彼らに裏があることくらいは分かっても、どんな裏なのか想像つかないほど経験が足りていない。

知っているのにそれを言わないことは多い。SNSで何かを発信した時、自分が思っているよりも多くの人がそれを見ていて覚えている。それがかなり怖い。そんなに仲良くもない、知り合いみたいな人に自分の大切な思い出を切り売りして何が楽しいのだろうかと。切り売りしているのならまだいい。自分の思い出がお金になっているのならまだ救いはある。インスタグラムなんて自分の懐に一銭も入ってこないのに何が楽しくて自分の大切な思い出をわざわざ知り合いレベルの他人と共有するのか。大切な友人とだけ共有すればいい話である。僕だって知り合いの投稿を見て、イタいとかダサいとか何が楽しいのかと思うことがある。でもそれを直接本人に言うことは絶対ない。同じことを僕の知り合いも僕にしているかもしれないと思うと怖い。そもそも他人に自分の思い出をそんな風に思われたくない。

こんなことだから僕はディタラトゥエンティになれなかったのだろうか。承認欲求に従っていれば、一人で夜明けを迎えられなかったのだろうか。そろそろ僕は21歳になる。ディタラトゥエンティワンなんてものは最初から存在しない。

夜行列車から夜明けの日本海を眺めてたって、何かが変わるわけではない。少なくともその瞬間だけは、この世界には僕しかいない。そんな瞬間を大切に積み重ねていきたいだけなんだ。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?