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良くも悪くも、善くもまあ慾がある


1999年1月11日に産まれたらしい「自分」は2020年7月1日現在、どうやら

経過日数7,842 日
経過時間188,197 時間
経過分11,291,850 分
経過秒677,511,000 秒

の時間生きてきた、あるいは死んでいっているらしい。

まあ腹から出てきた瞬間を「産まれた」というのなら「生まれた」瞬間はいつになるのだろうか、という疑問はあるが。胎児のとき?それとも臓器が形成され始めたとき?それとも受精卵の時?それとも卵子の時?それとも精子の時なのか。まあどうでもいいか。

そんなことを考えていたら、ふと定義によっては歴史的な大量殺戮をしていたのかもしれないとふと思ってしまった。それも我が子供。何千億、何兆、はたまた何京を放って包んで捨てて、あるいは流してきたんだろうな。後悔も罪悪感もないけれど。


冒頭で死んでいっているらしいと、如何にも哲学者が発したであろう言葉を引用し書き連ねたが、これは私の敬愛し感服し溺愛する作家の受け売りだ。私の中の哲学者。鵜吞みを嫌う私が思案を馳せ思考を巡らし「人」呑みした言葉だ。考えることこそが自分自身の欲求であると決めたきっかけは思い返せば彼に影響された部分もあるのだろう。先天性でもある気がするが。

哲学やなにやらといった話になると連想してしまうのが性善説と性悪説だ。広く社会で誤用されがちな性悪説だが、性善説も含めその存在を知った中学のときにただ名前がカッコいいからという理由で、多くの人間の記憶に深く刻まれたであろう哲学者の思想である。正直、今でも性善説だとか性悪説だとか言うネーミングはカッコいいと思う。センスがある。クールである。 翻訳者のセンスかもしれないけれども。まあ翻訳者の名前さえも知らなければ、そもそもの著者というか論者の名前は今の今まで名前の最後に○○子が付くな、程度にしか記憶していなかったのだけれど。


ところで、これを見ているあなたは、孟子や荀子が論じたような自分なりの「論」というのを持っているだろうか。あるいは確固たる「自分」を認識しているだろうか。


私の場合は、確か、にわかにしか断定はできないけれど、高校の時の資格取得に対する圧倒的自信が少しだけ圧倒され、それでも本気出してなかったと強がった大学1年の冬に。(今思い返すと、本気を出せなかっただけなりの本気だったが。)もっと正確に間違えのないように時期をフェードインすると高校2年の後期から今現在に至るまでに、私の中の「自分」が形成されてきたのだと思う。いや、この駄文を書く最中に違和感を感じて考え直すと、定義はできないけど確実に在った「生まれた」瞬間からだろうか。考えると果てしないが、人生紆余曲折を経て今の「自分」は性悪説と性善説をオマージュしたような、所謂「論」というものを思想した。

名付けるならば、派生元となる性善説と性悪説を文字って

「性欲説」とでも言おうか。脳細胞の少なさが露呈したような表題である。他人のセンスを単に模倣したら著しく劣化した。これもセンスの所業だろうか。いつかは恰好良く改名してやろう。


単純に、馬鹿でもわかりやすく、たった今考えた造文を用いて説明するのならば「性[saga]とは慾[yoku]なり」。

孟子と荀子も全く持って未熟だと言わざるを得ない。人間の性なんて善でも悪でもなく欲だということに何故気が付かなかったのか。いや、気が付けなかったのだろうか。そもそも人間には、善も悪もないのだ。只々、欲があるだけなのだ。善も悪も、立場によって、見方によって、考え方によって変わるということはアリストテレスやカントなど某哲学者達が証明してきた。つまり、「善悪」は人が定義しなければ存在などし得ないし、定義もそれこそ無限に存在するのだ。だがしかし、無数に枝分かれする大木の根にも根本となる幹があるように、その無限にも幹が存在する。それが「慾」である。


慈愛も嫌いも博愛も迫害も思いやりもお節介も恋愛も友愛も憎悪も嫉妬も全て、感情全てが欲なのだ。

無知は罪ではなく罰である。可哀想で哀れな鵜はこう聞くのだろう。

「では、親が子に注ぐ無償の愛はどうだろうか。」








欲だ。欲である。欲でしかない。






無償の愛なんて馬鹿げた造語だ。無償なわけがないことをちょっと頭を捻ればわかるだろう。捻ってわからないなら搔き毟って掻き混ぜて考えろ。

親が子に愛したいから愛しているんだ。愛したいという欲を満たすためだけに愛している。これのどこが無償だ。有償だ。殊勝な願望だ。切望だ。熱望だ。渇望だ。希望だ。欲望だ。


誰かのために何かをすることなんて決して在り得ない。ありとあらゆる全ては己のためだ。欲のためだ。


必至で高校に受かるまいと、大学に受かるまいと徹夜で、心身ともに削って勉強する我が子を想って作る夜食も、全ては自分の欲の捌け口でしかない。ただ自分が我が子を労いたいという欲だ。応援したいという自己中心的な欲だ。欲の発散でしかない。

愛する家族も、守るべきペットも、掛け替えのない親友も、愛しむべき恋人も、貧困に苦しむ、虐げられている、生涯に絶望している他人も、無残に殺してやりたい、殺さずに永遠に苦しませ続けてやりたいと思う宿敵も、会社の部下も学校の先輩も、社会も、世界も、生きとし生ける全てが、死にゆき死ねる全てが、己自身すらも。全ては欲の発散対象でしかないのだ。

だからこそ、誰かのために何かをしてあげたとか恩着せがましい醜悪な言葉が、態度が、心持ちが嫌いで仕方がない。程ってもんがあるだろう。死ね。死んでくれ。

最後に余談だけど、マズローの欲求階層説って最初はスゴイと感心したけれど今はそうでもない。あの細分化に何の意味がないことを、現代では承認欲求によって人は死ぬんだぞと、彼に教えてやりたい。どんな表情をするんだろうか。顔知らんけど。。。


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文末で熱を帯びてしまったが、「性欲説」は十二分に貴方に伝わったと思う。性善説と性悪説よりも遥かに大局的で漠然的な抜本的な「性欲説」が。



閑話休題。それはそうとして、いよいよ満を持して、万難を排して、万全の準備を終えて本題に入ろう。











私は今つぶ貝が食べたい。























P.S そうそう、なんでこんな駄文を書き始めたかって?

ついさっき、中学生のときに読んでいたライトノベルのアニメ化作品を見たらで似たようなことを言っていたからだよ。

大好きな作品でありながら全く覚えがなかったけれど、無意識に脳裏に刻まれてでもいたのかな?

先天的か後天的か、どちらかは明確にわからないけれど。同じとは言えないまでも、少なくとも似た考え方に辿り着いたという事実が堪らなく嬉しかった。やはり、彼の書く物語が大好きだなと痛感させられた。

ちぇりお。


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