ある出来事から思い出した共感と理解のむずかしさ
※個人の感想です。
昔は自分や誰かの役割がどうのとか考えたこともあり創作でもタイトルにしたことがあった。
ただ共感や理解に条件や肩書きなんて気にする必要があるのだろうか?
きっかけにはなるけれど皆が大切な人に言われたいことって
「〇〇なら大丈夫。」
なのかもしれないでしょうか?
母方祖父は数年前末期ガンになり動くこともままならなく、私はただ祈ることしかできませんでした。
亡くなった母方祖父は色々こちらを心配していたはずなのに「お前は大丈夫。」と末期ガン時にはあれだけハッキリと喋れる状態ではなかったらしいのに その言葉を自分へ投げかけてくれた時は普段では有り得なかったと母方祖母から聞きました。
自分がギリギリ生きていけるのも母方祖父の最期の励ましがあるから。
もし母方祖父じゃなかったら。
でもそれは違ったのかもしれません。
誰かに何かを押し付けたことが一切ない母方祖父だから今でも忘れられません。
別にこの記事は何かを狙った訳でもなく、自分が凄いと思い上がってる記録ではありません。
それまで友人や誰かにそんな言葉をかけられたこと もなかったので動揺はしていました。
だから家族がどうのとも言うことはありません。
ただ自分がそういう経験があったから生きているというだけ。
さらにその経験があっても探していた居場所巡りも最終的に
「母方祖父のような人間はほぼほぼ居ない現実」を 知ってやっと居場所探しもやめることができました。
この記事を投稿したきっかけは、ちゃんと生きていこうと考える際に具体的にちゃんととは何かを学ぼうと検討するようにシフトすることを思い出したからです。
繋がりや共感に理解を皆が他者に求めたいのは肯定されたいだけではない期待と不安に急かされている から余裕がなくなって相手のことを考えられなくなってきているからなのかと、noteをどのように書くかを学びながら書いて失敗したことと上手くいったことの繰り返しでこのことを思い出していく。
しかし具体的に言語化はいまだ難しいなあとここで諦めないようにしたくてしんどくて。
都合のいいことばかり考えられる思考はとっくに捨てられた。
誰かに理想を求める事も捨てて。
少しずつ進むしかない。
まずは記事を改善すること。
そこを目標にします。
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