ツクツクボウシがなく予兆
※個人の感想です。
端末やアプリの不具合で同じ文章が繰り返されている可能性あり。
以前、「セミがなく」とタイトルをつけた記事をこのアカウントで投稿致しました。
七月のある転換期もすっかり…いや、話すのはよしましょう。
台風も過ぎて、八月のお盆も終わる頃。
あとは例年通りならツクツクボウシが鳴いて、秋か冬かを待つのみとなる。
今年の夏は沢山のコンテンツに出会えた。
既存とも新規とも言えない、保留にしていた作品を楽しむことが出来た。
そして長かった未練から抜け、もうこの地に何の思い出もない。
正確には別ではあるものの、「いつまでも偏って末路から逃げるな。」と指摘すればいい。
勿論他者にそんなことは言うつもりはありません。
身近なある人達との戦いですから。
それもいつかここに記すか、気を遣って後からサラリと流すか。
冬の前に終わらせる必要のある出来事は数多い。
ツクツクボウシが泣く度に年の終わりの期待感は薄れていく。
何も変わりはしないとかつては卑下していたのに…。
絵も描け、音楽にも興味を持ち、短編小説とはいえ作品数も増えた。
そうした出来ることを安易に「金にならない」と周囲は言いますが、その存在もあらゆるきっかけに出来る。
正確に言えば恨むのに限度がある事を知りました。
自分一人恨んでも今も昔もこれからも変わらないかもしれない絶望。
それなら、もう少し別の観点から切り込むしかない。
塞いでやさぐれ、何度も凹み、寝て過ごす。
その時に出会った人間に掛けられた言葉は悪意のない殺意。
それをいつものように秋の訪れとして流していいのか?
常々考えておりました。
不用意な絶望に毎度足を引っ張られているのなら…もうそのまま大人しく従うのも馬鹿らしい。
まだ案は考え中ですが…ここからなのかもしれない。
いつもそうは言ってはいるものの、何度も気が滅入るのが現実。
小さくて、未だ手が遠い世界の先に自分の理想や幸福では無い歓びがあるのなら…ここで諦めたくは無い!
吉報か凶報かはまた変わる。
中間もまた別の選択肢。
誘惑に駆られる自分と戦いながら、歩み続けられると少しでも信じられないかな…
そう思うのなら…この考えはただ繰り返される人生に屈服したわけではないのでは?
仮説を実証しないままにはしない。
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