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邪馬臺国東征説❶播田説

今回は邪馬臺国東征説の播田説を紹介します。
内容は日本史サイエンスを参照しております。

論点は

  1. 日食

です。

基本的には北九州説❶で紹介した長野説に似てます。

1.卑弥呼の死と「日食」

魏志倭人伝に記載されている卑弥呼が死んだと言われる年である247年と248年は皆既日食が発生しています。
この日食が原因でシャーマンであった卑弥呼(日の巫女)は殺された。とされます。

現代の科学では日時まで特定できるようです。
※247年3月24日と248年9月5日
 「三国志」と「普書」には記載あるようです。
アマテラスの天岩戸隠れもこの事象を参考にしているような気もします。
天岩戸に隠れる=皆既日食でないとだめ。

皆既日食が見られるのは北九州か畿内か

基本的に皆既日食が見れるのは北九州ということになります。
※畿内でも見れる場合もある。

日本史サイエンスより

なので、著者の考えとしては
卑弥呼は死ぬ時は北九州にいた。です。

2.船と航路

朝鮮〜玄界灘〜北九州

日本史サイエンスより

筆者曰く普通に朝鮮を出発すると北九州にたどり着けないとのこと。
玄界灘は潮の流れが速いため、安全を求めた船だと速度が出ずに流されてしまうとのこと。

※長野説は旧暦4月〜6月なら大丈夫

瀬戸内海航路は無理

ここに関しては長野説と同じで瀬戸内海航路は無理派。
⇨瀬戸内海航路が開拓されたのは平清盛の時代(11世紀)

※長野説は瀬戸内海航路開通は帆船が誕生した4世紀としている

朝鮮〜但馬ルート

玄界灘と瀬戸内海が厳しいということで筆者が考えたのは
玄界灘の潮の流れが速いなら、何もせず潮の流れに身を任せればいいじゃない!です。

すると勝手に流されて出雲の近くに行く。大山や出雲大社が目印になる。
そこから漕ぎ出せば出雲や但馬に辿りつく。

人口問題

魏志倭人伝との違いは人口面でもある。
吉野ヶ里遺跡を邪馬臺国と比定したとする。
吉野ヶ里遺跡は1,200人程度の集落。
魏志倭人伝のいう7万戸(推定28万人)にはほど遠い。
ここをどうするか。

邪馬臺国東征

そこで筆者が考えたのが、247年の皆既日食後に卑弥呼が殺された。
そして後継者「台与」の掛け声で畿内へ東征したというもの。
そしてそのルートは山陰ルート
但し、状況ありきでなぜ東征したのか?ということは述べられていない。

時間軸でいうとこんな感じ

       邪馬臺国
247年3月 北九州   皆既日食
247年中  北九州   卑弥呼暗殺される
それ以降   東征開始
       畿内    魏の使者の訪問があるまでに東征を済ます
             ※7万戸の集落を作る
250年頃  畿内    魏の使者の訪問

私の疑問点

そんな数年で7万戸の都市を作れたのか?
魏の使者の来訪は何年?
それともそれなりの都市が既にあったのか
ただ、人口28万人を養おうとした時に当時の奈良盆地はほぼ池で収穫量は全然ない。
そして土地の7割が祭祀施設という報告もある。
人が住むところだったのか

魏志倭人伝のルートと山陰ルートの整合性

不弥国 ⇨  投馬国
   水行20日
   ※筆者計算 時速3km 1日8時間で計算合う
   ※長野説参照 海は1日20kmが妥当

北九州から日本海側に20日
但馬(豊岡)付近に投馬国があった。

山陰ルート

投馬国 ⇨ 邪馬臺国 
  水行10日
  陸行1月
豊岡(アメノヒボコ伝説)から円山川沿いに奈良まで歩いて1ヶ月

但馬〜大和まで

山陰ルートの根拠(鉄ルートと神話)

1.スサノオとヤマタノオロチ
 ヤマタノオロチはたたら製鉄の炎からの連想
 大和政権と出雲の豪族の「鉄」をめぐっての争い

2.新羅王子「アメノヒボコ」と豊岡
 新羅から鉄を伝える。
 治水事業をし、豊岡改良をする。

3.百済王子「温羅」と吉備
 百済から製鉄、製塩、造船技術を伝えた。

・メモ
①翡翠が忘れ去られたのは中国で需要が無くなったから
 ガラスにとって変わられた
②鉄は6世紀前半には国産で賄えるようになった

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