赤穂浪士討入のなぜ
赤穂浪士討入を昨日、英雄達の選択でやってました。
最近は12月14日の夜の放送も無くなり、若い人はもう知らないのではないでしょうか。
そんな中で「英雄達の選択」を観ると、色々ななぜがありました。そこを勉強しました。
流れのおさらい
将軍綱吉はなぜ怒ったのか
浅野内匠頭の即日切腹に関しては5代将軍綱吉がほぼ独断で決定したようです。
綱吉といえば「生類憐みの令」です。やり方は極端ではありましたが、武断政治から文治政治への切り替えと定着という点では天才的とされています。
また側用人を用いることで従来の老中の合議政治から脱し、直接的に政治をしました。それはこの判決も綱吉主導で行われたことに現れています。
では、なぜ綱吉は激怒したのか。
お分かりでしょう。綱吉は「生類憐みの令」という極端な法令を出してまでして社会を変えようとしました。結果的に辻斬りや斬り捨て御免といったことが減って平和な世の中になってました。そんな中でのこれまでの努力を踏み躙る形の刃傷事件。これは許されませんでした。
そして最大の理由がこの事件当日が綱吉の母が従一位という高位の官位を朝廷から戴く日だったのです。なんと朝廷外の女性が従一位になるのは史上初だったようです。
まさにTPO的には最悪の日・場所でした。
喧嘩両成敗はなぜ適用されなかったのか
ここで勘違いされているのが吉良と浅野が喧嘩をしていたということ。
実際は浅野が後ろから一方的に斬りかかったようです。
※喧嘩にしたことになっているのは「仮名手本忠臣蔵」の影響。こちらは浅野をいじめられた悲劇の人、吉良を悪人にすることによって大石らを美化したストーリーが人気となったため。
(しかも、不意打ちにもかかわらず(しかも4回も斬りかかったのに)浅野は吉良に軽傷しか与えられませんでした。)
つまり武家諸法度のいう「喧嘩」には当たらないのです。
そして殿中での『鯉口三寸』(刀を抜こうとする行為ですらアウト)は「御家断絶・当人は切腹」の対象ですので、法治国家としては適切な処置であったようです。
浅野内匠頭はなぜ斬りかかったのか
なぜ斬りかかったのか?の前に「なぜ浅野が今回の大役に選ばれたのか」を見てみると朝廷の勅使を迎える際の担当者を過去に1度経験していたからだと思われます。
通常であれば全国の大名が入れ替わりで行い、「高家の吉良が指導する」ようです。
しかし、将軍のメンツ的にも絶対に失敗できないので経験者である浅野が抜擢されたようです。そして浅野は経験者であったため、金を吉良に半額程度しか払わなかったとか…まぁそこはわかりません
本題に戻って、なぜ斬りかかったのかと言われると「乱心」のようです。
浅野内匠頭が精神的な病気を抱えていたことは間違いありません。そしてその病気は今日でいう「脅迫性障害」だったと思われるとのことです。
脅迫性障害知らなかったですが先日佐藤二郎さんも公表されてましたね。
大石内蔵助はなぜ仇討ちしたのか
ここではっきりさせておかないといけないのが大石自身が仇討ちを望んだわけではないということです。
大石の目的は「浅野家」の再興であり、断じて「内匠頭に殉ずる」ことではないのです。
この時代の武士の教養は朱子学です。
大石の教養は内匠頭の対する「忠」よりも浅野家に対する「孝」の方が大きかったと思われます。
※多分この表現間違ってると思います。
本来の「孝」は親や先祖です。朱子学は「孝」>「忠」の学問、宗教です。
ただ「君は1代、御家は末代」という言葉があるように御家第一だったのは間違いありません。
今日、赤穂義士として言われてますが、本音は厄介者の殿様が消えて新しい殿様をトップに据えるチャンス!と思っていたかもしれません。
大石は冷静な男です。過去の武家諸法度の適用事例等を調べます。
そして大石が見つけたのが「乱心」(精神疾患)による刃傷沙汰はお家断絶の対象にはならないということでした。
ですので、大石は浅野内匠頭の弟を立てて浅野家を再建できると考えていたのでした。
大石が浅野家を守ろうとしたのは、自分の雇用もそうでしょう。そして家臣団250人の雇用もそうでしょう。その関係者となると数千人が影響します。その影響を最小限にしたかったのでしょう。
赤穂藩は5万石と小さな藩ですが、塩田開発が大きく裕福な藩であったようです。
英雄達の選択の番組内でも磯田さんが「乱心」という形にして弟に後を継がせばよかったと言ってます。
そして老中も5人中3人が「乱心」事例適用を推薦しました。
ところが綱吉は「乱心」事例を適用しなかったのです。
こうなると大石は実質的に討ち入りをするしかなくなってしまったようです。250人の家臣団の就活という意味での討ち入りでもあったかもしれません。
大衆はなぜ赤穂浪士に熱狂したのか
番組の中で登壇者が『武士というのは「自力救済」ができる地位だった。しかし、綱吉の治世行こうそれが不可能となった。』
という話もありました。
そこは庶民も同じで生活の堅苦しさがあったのではないか?と言われています。文治政治になったことで「元禄文化が花開く」なんて言葉ができるくらい文化的には成長しました。その一方で蚊も殺せないストレスというものが民衆に溜まっていたのも事実なのかもしれません。
そして大衆は刺激を求めるものなのは今も昔も変わりません。
20対80の法則
今回、赤穂浪士討ち入りを再度見てみてびっくりしたのが20対80の法則です。
大石は250人全員で(御家再興)を頑張りたかったようですが、残ったのは48人でした。(討ち入りは47人)
見事に20対80です。
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