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八幡神が知れば歴史がわかる①

日本で一番多い寺社をご存知でしょうか?
はい、そうです。八幡神社です。

そんな八幡神社について皆さま如何程ご存知でしょうか?
総本山は宇佐(大分)になりますね。
そして参拝の際は2拝4拍1拝という出雲大社と同じく4拝の神社です。
そんな八幡神社について今日は2つの説を紹介します。


①秦氏の影響下説

八幡は普通は「はちまん」と読みますが、これを読み替えると「ヤハタ」となります。
八はたくさんを意味します。そしてハタは秦氏です。
そうです。たくさんの秦氏ですね。
書物にも応神天皇の時代に渡来人が豊国にたくさんきたと記載があります。
豊国とは豊前・豊後で今の福岡県の一部と大分県になります。

スサノオ=宇佐の王

そしてヤハタに続いてまた文字遊びです。
ウサ・・・ウサノオウ・・・スサノオというやつです。

八幡神社の祭神としては
①誉田別命(応神天皇)
②比売神
③神功皇后(応神の母)
となっており、スサノオは直接的には関係ありません。が発音的には似てるなぁ笑

比売神=卑弥呼?

では比売神とは誰なの?となるのですが一般的には宗像3女神を指すようです。アマテラスとスサノオの誓約で生まれてくる女神たちですね。

しかし、そんな比売神を卑弥呼とする考え方もあるようです。
そしてその墳墓としては平原古墳などが考えられているそうで、祟り封じとしての神社が八幡が用意されたという説です。

国東半島=国裂き⇨倭国大乱

国東半島を「くにさき」と読みますが、これを魏志倭人伝でいう倭国大乱に当てはめる説もあります。前述の比売神=卑弥呼説を後押しするイメージでしょうか?

②八幡=武神

次の説はかなり正統派説です。
八幡は中国から渡ってきた武神と意味があります。

国東半島=国埼(領土の端っこ)

7世紀頃の日本はまだ統一王朝ではありません。
九州や東北には服従しない人たちがいたわけです。(北は上野・下野辺りまで)
そうした意味で国埼(領土の先端・端っこ)半島と言ったとも言われています。
特に宇佐のある豊前は大和王権の支配が及んでいましたが、川を挟んだ豊後はまだ大和王権支配下ではなかったようです。

そんな大和王権の端っこ置かれたのが武神である八幡だったと。
これはのちに鎌倉幕府が八幡宮を主神とすることからも明らかです。

そしてもう一つ意味としてあったのが対新羅としての意味だそうです。
対新羅の通信使も終わったあとも新羅との貿易などはあったようですが、新羅が衰えてくると移民がたくさん来たり、いわゆる海賊的な人たちもでたようです。
最初は移民を受け入れていた大和王権も、反乱を起こされたりしたことで態度を硬化し移民の受け入れを禁止します。
しかし、そのあとの海を渡ってくる新羅勢力に頭を悩ませました。

法都を作ろうとした聖武天皇

聖武天皇は藤原氏も藤原氏による藤原氏のための天皇でした。
しかし、そんな聖武天皇も長屋王の祟りで藤原4兄弟が死んだのを見て心が変わります。
なんとここから生き方をがらりと変えてしまうのです。

藤原氏の頼りきりだった政治を橘諸兄を中心とした皇親政治としました。
そして、藤原氏の作った平城京から逃げ、恭仁京を建てます。
そして盧舎那仏を紫香楽に作ろうとするのです。

聖武天皇は
恭仁京:政治都市
紫香楽:宗教都市
という2拠点による聖と俗の統治を目論みました。

そしてこの時代の仏教は国家仏教でした。僧侶になるのも国が認めた人しかなれない厳しいものでした。
しかし、聖武天皇は大仏はみんなで手を取り合って作るとして、大衆仏教を目指しました。

破綻した法都・紫香楽計画

しかし、紫香楽でも大仏建立計画は失敗に終わります。
藤原氏の反抗があったためです。連日放火が繰り返され、聖武天皇は諦めて平城京へ帰ります。そして一緒に頑張ってきた行基もこの世を去ってしまいます。
そして、泣く泣く平城京に大仏を建立することにします。
平城京での大仏建立における権限も藤原仲麻呂や皇后である光明子の妨害に遭います。

これでは国家仏教に戻ってしまう。
そんな危機の中で、聖武天皇が持ち出したのが八幡神との神仏習合でした。


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