人類をほろぼす党、政見放送


 その日の夜は、眠れない夜だった。

 暑苦しかったからだ。

 クーラーが壊れていたからだ。

 風が全く吹かないから、窓を開けても部屋の中は全く涼しくならない夜だったからだ。

 裸になっても、暑さは、全く和らぎはしなかった。

 暑くて、自分の肌から止まることを知らずにあふれ出す汗が気持ち悪くて、その汗でぬれていく布団のぬるぬるとした感触も気持ち悪くて、耐え切れなくなった僕は、寝る努力を放棄することを決断した。

 枕の傍らにあったリモコンをつかんで、「点灯」のスイッチを押した。

 寝室の闇が、人口の光に置き換わった。

 布団から体を起こした。

 本棚の上にある時計に目をやる。

 針は、0という数字だけを示していた。

 こんな時刻なら、深夜アニメが放送されているかもしれない。

 今期にどんな作品が放送されているかなんて、全く知らないのだけれど。

 でも、テレビを見るぐらいしか、この眠れない夜の時間のつぶし方を僕は知らなかったから、ふすまを開けて廊下に出て、階段を下りた。

 父も母ももう寝ているのだろう。居間は僕の寝室と違って、闇で満ちていた。

 手探りで壁のスイッチに到達して力を籠めると、テレビとテーブルだけの簡素な部屋が、僕の視界に現れた。

 テーブルの上においてあったリモコンをもって、テレビに向けた赤いスイッチを押した。

 テレビに画面が映し出された。

 画面の中では、座ったおじさんと、立っているおばさんがいた。

 おじさんは何か、難しいことを話していて、おばさんは、手を奇妙に動かして無言だった。

「……改革を進め、経済を成長させ、国民の生活を・・・・・・」

 座っているおじさんの上に吊り下げられた看板に書かれている、「皇国民主党」という文字を見て、僕はああ、と、胡乱な頭で得心した。

 そうか、政見放送とかいうやつか。

 そういえば、このおじさんの顔は、どこかで見たことがある気がする。多分、総理大臣だ。

 手を高速で動かしているおばさんは、手話通訳だ。

 そういえば、選挙が近いと、母が言っていた気がするし、漫画を買うために外出すると、大音量を出して走る車が、ここ数日は妙に多かった気がする。

 まあでも、どうでもいい話だ。

 僕は、チャンネルを、アニメを放送している局へと変えた。

 ちょうどCMだったので、台所に行ってみた。

 アイスとサイダーが欲しかったからだ。

 冷蔵庫のドアを開けると、冷気が僕に押し寄せた。

 その感触を喜びながら、僕は三ツ矢サイダーとがりがり君を取り出して、名残惜しいけど再び冷蔵庫のドアを閉めた。

 居間に戻ると、もう、テレビではCMが終わって、アニメが始まっていた。

 学園で、美少女たちが、部活動をするアニメらしい。

「ふえええ」

 画面の中では、美少女たちが、奇声を上げたり、顔を赤らめたりしている。

 僕はテーブルに座ると、サイダーを開いた。

 ぷしゅ、という小気味いい音が、夜の居間に聞こえた。

 アルミ缶を右手に持って、口につける。

 冷たい。

 冷たくて甘い炭酸水が、僕ののどを潤した。

 美味い。

 缶を置いてから、がりがり君を手にとって、袋をびりびりと開けて、青いアイスにがぶりついた。テレビに視線を向けながら。

「ちょっとお、風紀違反ですう!」

 数分後、僕はアニメ界の現状に失望していた。

 その美少女アニメは、はっきり言って、退屈極まりない代物、駄作であることが、わずか数分で理解できてしまったからだ。

 特にダメなのが作画だ。

 表面上、小奇麗に仕上げているだけで、繊細さの欠片も感じられないし、人体に対する観察力が欠如している。

 かつて、僕は、毎日のようにアニメを夢中になってみていた。

 でも、ある時を境に、ふっ、と、習慣は途切れた。

 アニメ会社のスタジオが、放火された事件が、きっかけだった。

 ガソリンを使った放火だった。

 その放火事件で、そこで働いていた何人ものスタッフが、亡くなった。

 その中に、僕が大好きだったアニメ作品を、監督していた人も、いた。

 そのことが、僕にはどうしてもショックで、その事件に関する報道を目にすることだけでも苦痛になって、アニメはおろか、テレビやネットを見ることが、出来なくなった。

 だから、近日選挙が行われるという話にも、実感がわかなかったのだ。

 だから、そんな僕が、今夜こうしてテレビをつけているのは、まったくとんでもないことなのだ。

 きっと、暑さのせいだ。

 風さえも吹かない、夜のせいだ。

 いや、それにしても、このアニメは酷い。

 あの会社が放火されたせいで、沢山そこで働いていたスタッフが亡くなったせいで、日本のアニメ界のクオリティが、落ちてしまったのだろうか?

 耐え切れず、僕はテレビを消した。

 居間は、沈黙に支配された。

 僕の頭に、汗でぬれる布団が、浮かんだ。

 あそこにまた戻ることは、嫌だった。

 何をすればいいのかわからなくて、仕方なくまたテレビをつけた。

 でも、またアニメを見続けることも嫌だったので、チャンネルを変えた。

「・・・・・以上、日本共和党の、政見放送でした」

 さっき、政見放送をしていたチャンネルだった。

 ちょうど、野党の政見放送が、終わったタイミングらしい。

 なんとなく、見続けることに決めた。

 少なくとも、不快感はなかったから。

 選挙権を持つ、国民の一員として、一応関心を持つのが義務だろうし。

 気づけば、アイスを食べ終わっていた。

 まだ残っているサイダーを、ぐび、と、のどに流し込んだ。

「『人類をほろぼす党』の、政見放送です」

 噴き出した。

 テーブルの上に、砂糖入りの炭酸水が飛散した。

「お話は、人類をほろぼす党代表、高杉しんじさんです」

 テレビの画面には、青単色の背景に「人類をほろぼす党代表 高杉しんじ」と白い字で大きく映し出されていた。

 聞き間違いでは、なかったのだ。

 それにしても、何だ?

 この、ふざけた名前の政党は。

 こんな名前でも、選挙に出ることが、許されるのか?

 参院選比例代表 人類をほろぼす党。

 高杉しんじ。

 テレビには、そう書かれた看板と一緒に、たった一人で座る男がいた。(手話通訳の人は、全ての人につくわけではないのだろうか?)

 この男が、高杉しんじという人なのだろう。

 若い。

 それが、彼を見た時に、真っ先に浮かんだ言葉だった。まだ20代、それも、僕と同じくらいにさえ見える。

 僕は、不思議な親近感を彼に覚えた。まるで、ずっと昔からの知り合いが、テレビに出ているのを見ているような・・・・・・。

 高杉しんじは、深呼吸をした後、叫んだ。

「すべての人類を、ぶっ殺す!」

 それが、第一声だった。

 テレビが震えたかのような錯覚さえ覚える、叫びだった。

 視線を一点に集中させ、口を限界まで開けて、両腕を掲げながら、彼は叫びを重ねた。

「一人残らずぶっ殺す! 老いも若きもぶっ殺す! 男も女もぶっ殺す!」

 そう叫んだあと、流石に四度も大声をあげて疲れたのか、息を荒げ、深くため息をついて突っ伏した。

 しかし、すぐに、顔を上げた。

「みなさんこんにちは! 人類をほろぼす党の代表、高杉しんじです!」

 満面に笑顔を浮かべ、朗らかに言った。

 さっき叫んだ時とは、まったく様子が違っていた。

 挨拶を言うべき順番が、ちょっと違うんじゃないか? 僕はそう思った。

「皆さん、わが党の公約は、たった一つしかありません! さっきも言いましたが、大事なことなのでもう一度言います。どうかよく聞いてください」

 そして、深呼吸をして、彼は再び叫んだ。

「あなたたちを、ぶっ殺す!」

 さっきとは、違う言葉だった。

 まあ、意味は大して、変わらないのかもしれないけれど。

 彼はまた、笑顔になって、言葉をつづけた。

「なぜあなたたちを、全ての人類をぶっ殺さなければならないのか? それは、あなたたち人類が一人残らず、生きた毒物だからです」

 沈黙。

 ちょっと、沈黙を挟んでから、高杉しんじは言った。

「あなたたちが、呼吸して歩くダイオキシンだからです」

 沈黙。

「あなたたちが、ただ生きているというだけで死刑に相当する罪を犯し続けている犯罪者だからです」

 沈黙。

「なぜ、あなたたちが犯罪者なのか、説明します」

 僕はもう、サイダーを飲み終わっていた。空っぽの缶と破かれたアイスの袋が、テーブルの上に転がっている。

「あなたたちは、昨日の晩ご飯が何だったか、思い出すことが出来ますか?」

 僕は、今日の、いや、もう0時を回ったから昨日の、夕食に出た豚肉を思い出した。

 タレのかかった、美味しい肉だった。

「それには確実に、他の生き物の命が含まれていました。動物であれ、植物であれ、私たちは他の生物を食べなければ生きてはいけないからです。そしてあなたたちは、生まれてからずっと、毎日それを続けてきたのです。」

 高杉しんじは、自分の前にある机を、ばん!っと叩いた。

「いいですか皆さん! 毎日ですよ! ほかの生き物の命ですよ! 食べていたんですよ!」

 また、机をたたいた。

「大事なことなので、もう一度言います! 毎日ですよ! 他の生き物の命ですよ! 食べていたんですよ! あなたたちが食べるために、殺されたほかの生き物の命ですよ! あなたたちがいなければ、殺されずに済んだ命が、沢山あったってことなんですよ! あなたが生まれさえしなければ、殺されなかった命があるのですよ!」

 あいつさえ生まれなければ、死ななかった命がある。

 そんな言葉が、僕の中に浮かんだ。ずっと前にテレビで見た、炎に包まれる建物と、僕が大好きだったアニメの映像とともに。

 あいつは、人を焼いた。

 僕が昨晩食べたのは、焼かれた豚肉だった。

「あなたたちは、虐殺者だ! 一人残らず、死刑になるべきなんだ! 自殺しない奴らは、みんな犯罪者なんだ!」

 狂っている。

 そう、思ったけれど、テレビを消そうとは、思いもしなかった。

 高杉しんじは、一息つくと、また、落ち着いて語り始めた。

「わが党が、具体的に実行する政策は、刑法の改正です。現状の刑法の条文は、すべて削除します。その代わりに、新しい条文を、新しい罪を追加します。それは」

 彼は、机に隠れている部分から、一枚の大きな紙を取り出した。そこには、こう、大きく書かれていた。

 生存(せいぞん)罪(ざい)。

 そう、白地に赤い字で書かれていた。

「生存罪。これが、私たちが新たに追加したいと考えている罪の名です」

 紙を両手で持って、僕たち画面のこちら側にいる視聴者に見やすいように掲げながら、高杉しんじは言った。

「この罪の構成要件は、生きることです。刑罰は、最低でも死刑です。一切の例外なく、全ての人間に適用されます」

「皆さんは、きっと、こう言われると思います。そんな法律は間違っている。命は大事だからだ」

「私は、そんなことを言う人に対して、聞きたいのです。……命が尊いというならば、何故他の生き物を食べるのですか?」

「何故、ネズミやゴキブリを駆除するのですか?」

「何故、ただ路上を歩いているだけのワンちゃんやネコちゃんを、保健所に連れてきて殺すのですか?」

「人間の命は大事だけれど、人間以外の生き物の命は、大事ではないのですか?」

「なぜですか?」

「私は子どものころから、ずっとそう聞き続けてきたのです。でも、誰も答えてはくれませんでした」

「私が保健所で働いていた時も、誰も答えてくれませんでした」

「高校卒業後、私は保健所に就職したのです。そこで働いていた時、一匹のワンちゃんが、保健所に連れてこられたのです」

「黒くて大きなワンちゃんでした」

「飼い犬だったけれど、飼い主の手で、持ち込まれたのです」

「なぜ飼い主は、黒くて大きなワンちゃんを保健所に連れてきたのか?」

「『大きくなっちゃってもうかわいくないし、黒い犬はインスタ映えしないから』と、彼女が言ったのを、私は今でも覚えています」

「そのワンちゃんは、結局、殺処分されました」

「もう大きすぎて、引き取ってくれる人がいなかったからです」

 ひどい話だ。

 黒いペットは、インスタ映えしないから捨てられやすいというのは、聞いたことがあったけれど。

「数日前、その飼い主と再会しましたよ。電車の中で。彼女は、妊娠していました。大きいボテ腹をさも自慢げにひけらかして、私に対して、座っている優先席を譲るように、言ってきましたよ。きっと、私の顔なんて、もう覚えてなかったのでしょうね」

「よくもまあ、しれっと要求できたものです! 何の罪もないワンちゃんを実質殺しておきながら、自分の胎児のために他人に席を譲れなどと! あまりにも腹が立ちましたからね」

 そこで、高杉しんじは、言葉を切って、く、く、く、と、ちょっと笑いをこらえたかと思うと、言った。

「思いっきり、殴ってやりましたよ。彼女のボテ腹をね。凄く苦しがっていたなあ……。いい気味です」

 高杉しんじは、「いい気味です」といい終えたところで、爆笑しだした。

 見ていると心配になるような、激しい笑いだった。

「みなさん」

 笑い終えて、彼は言った。

「これが人間です」

「こんな人間が、ワンちゃんを身勝手な理由で殺すような人間が何も罰せられず、あまつさえ妊娠したからといって優先席に座る権利を与えられるのが、人間の社会なんです」

「人間以外の生き物の命のことなんて、全く考えていないのが、この人間の社会なんです」

「皆さん、許せますか?」

「こんな社会をつくった人類を、許せますか?」

「私は、許せません。ですから、人類は滅ぼさなければならないのです」

「人間の命は尊いという、狂った妄想は捨ててください、皆さん」

 高杉しんじは、机を、だん、と叩き、叫んだ!

「人を殺すことは、良いことなんだ!」

「人をたくさん殺すことは、良いことなんだ!」

「とにかく、ワンちゃんを身勝手に殺す人類をほろぼすことは、良いことなんだ!」

「特に妊婦は重罪です! 新しく人を生むという意思を、明確に示しているからです。みなさん、外でボテ腹を自慢げに見せている犯罪者を見つけたら、全力でそのブッサイクな腹を、ぶん殴ってやってください! 可能なら、いつも金属バットを持ち歩いて、ボテ腹をフルスイング出来るようにしていてください!」

 高杉しんじは、また、く、く、く、と、笑い始めた。口元を片手で抑えて、必死に抑えようとしてきたが、それでも笑いが漏れ出てしまうように見えた。

「ボテ腹を・・・・・・、金属バットで・・・・・・、フルスイング・・・・・・」

 その笑い声を最後にして、画面が切り替わった。

 人類をほろぼす党 高杉しんじ

 という文字だけが、映し出されて。

「人類をほろぼす党代表、高杉しんじさんの、政見放送でした」

 そんな、感情のこもらないアナウンサーの声が、テレビから流れた。

「この時間は、三つの政党の政見放送を、お伝えしました」

 そして、「終」という文字が、画面の右下に表示された。

 政見放送の時間が、終わったらしい。

 僕は、テレビを消した。

 気づけば、暑さは少し、和らいでいた。

 僕は、テーブルの上にあるサイダーの空き缶と、アイスが入っていた袋を、台所に持っていき、分別してごみ箱に捨てた。

 ふと、思い立って、台所の窓を、少し開けてみた。

 風。

 夜の闇から、風が、来襲した。

 涼しくて、冷たくて、優しい風が。

 思わず、涙が出た。

 知らなかった。こんな風が、吹くということを。

 知らなかった。世界はまだ、こんな風が吹くぐらいには、優しいということを。

 寝室の窓を開けて眠れば、眠ることが、出来るかもしれない。

 僕は、窓を閉めた。

 居間に戻って電気を消す前に、僕は、カレンダーの日付を確認した。

 今日は、木曜日だった。

 ということは、明々後日は日曜日で、多分その日が、選挙の日であるはずだった。

 どれぐらい久しぶりだろう。日曜日が待ち遠しいと思えたのは。

 あの日、保健所をやめた時を最後に、僕にとって、日曜日は何の意味もなくなった。

 でも、今からは、違う。

 日曜日に、僕は、人類をほろぼす党に投票するんだ。

 来るその日への期待を胸に、僕は、今の電気を消した。

 

「そんな名前の政党は、ありません」

 選管の女性が、困惑した表情で、言った。

 思わず叫んだ。

「嘘だ!」

 周りにいる、投票しに来た他の人たちの目線が、自分に集まるのが、わかった。

 そこは、小学校の、体育館だった。

 今日は、日曜日だった。

 この日、僕は、選挙権を得てから初めて、投票をするために、投票所である小学校の体育館に足を踏み入れた。

 だけど、比例区に投票するために記入するための台に置かれた政党一覧が書かれた紙を見て、僕は愕然とした。

 ない。

 皇国民主党

 日本共和党

 労働者の権利を守る党

 女性差別に反対する会。

 無税党

 日本平和党。

 人民の党。

 ない。ない。ない。

 どこからどうみても、「人類をほろぼす党」という文字が、なかった。

 信じられなくて、僕は選管の人に言った。

 この紙、間違っていますよ。人類をほろぼす党の名前が、ありません。

 なのに。

「本当なんです。そんな党の名前、聞いたこともありません」

 彼女は、そういうだけだった。

 そんなはずはない。

 僕は確かに「人類をほろぼす党」の、政見放送を聞いたんだ。

 代表の、高杉しんじさんのお話を聞いたんだ。

 今日は、あの党に投票するために、ここに来たんだ。

 人類を、ほろぼしたくて、ここに来たんだ。

 ぼくは、よろよろと、投票箱のある所から離れていった。

「投票はなさらないのですか? 高杉真司(しんじ)さん」

 後ろからかけられる彼女の声に応えず、僕は、体育館の入り口から、外へ出た。

 熱い太陽が、頭上から、僕を照らした。

 暑い昼だった。

 風さえも吹かない、暑い昼だった。

 空気さえ、茹でられているように錯覚した。

 僕は、照り付けられる路上を、帽子も日傘も被らずに、僕は歩き続けた。

 選挙ポスターが、沢山張られた掲示板が立っていた。

 でもそこに、「人類をほろぼす党」のポスターは、なかった。

 だけど、高杉しんじさんの、顔は見つけられた。

 だけど、それは、ポスターではなかった。

 路上に立つ、カーブミラーだった。

 なんでこんなものを、ポスターと勘違いしてしまったのだろう?

 きっと、熱いからだ。

 頭上から僕を、地上を、照らし続ける、太陽のせいだ。

 あの夜以上に、今日は暑い。

 まるで、体が燃えるようだ。

 フライパンの上で焼かれる肉のように。

 ガソリンを浴びて、燃えるように……。

 妊婦と、すれ違った。

 僕は、振り返った。

 けど、僕の手に、金属バットは、握られていなかった。

 それに、殴るような元気も、僕にはなかった。

 暑さのせいだ。全部。

 ぼう、と見ていると、妊婦は建物に入っていった。

「産婦人科」と書かれた看板がかかった、建物の中へ。

 頭の中で、声がした。

 人を殺すことはいいことなんだ。

 人をたくさん殺すことはいいことなんだ。

 人間は生きた毒物なんだ。

 妊婦は特に重罪なんだ。

 ぶっ殺さなければいけないんだ。

 ずっと前に見た、炎に包まれる建物が、頭に浮かんだ。

 ガソリン。

 妊婦

 アニメ。

 黒いワンちゃん。

 人類をほろぼす党の政見放送。

 僕は、財布をポケットから取り出して、中身を確認した。

 ガソリンを買えるだけのお金があるかどうか、確かめるために。

 

 



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