自分の作品が大嫌い ~存罪論~
1
はじめて、エッセイを書く。
エッセイのテーマは、タイトルに全て表現されている。
そう、私は私が書いた作品が大嫌いなのだ。
「水に食ワレル」も。
「女不良教師と童貞少年」も。
「人類をほろぼす党 政見放送」も。
「想像力抑制法」も。
「僕の彼女は殺人鬼」も。
みんなみんな、大嫌いなんだ。
何故大嫌いなのか?
つまらないからだ。
ページを開いても、たった一行も、たった一文字も、読み進めることが出来ないくらいに、興味を持つことができないからだ。
どうして自分はこんなにセンスがないのだろう。
どうして自分がつむぐこの言葉は、かくも下品で、かくもスマートでなく、かくも退屈なのだろう。
僕は、僕が書いた文章を目によって認識するたびに、そんな感情に襲われるのだ。そんな感情に心を凌辱されるのだ。
拷問を受けているかのように、苦しい。
自分が努力して書いた言葉が、この世に存在することが、苦しい。
外へ出て道を歩くたびに、すれ違う人がみんな、僕のことを笑っているような気がするんだ。
嘲笑の笑いだ。
「あんな恥ずかしい、下らない文章を書いておきながら、よく恥ずかしげもなく外を歩けるね」
そんな言葉を、僕は何度も聞いた……。いや、実際には、聞いていない。 でもきっと、そんなことを言うに違いない。僕の書いたモノを、彼らが読めば。
ああ、いやだいやだ。
だけど僕は、自分が書いて発表した作品を、消し去ることはできない。
僕が書いた作品は、僕の子どもだからだ。
僕がお腹を痛めて産んだ子どもと同じくらい、僕にとっては重い存在だからだ。
だから、消せない。
大嫌いだけど、消せないのだ。
僕は永遠に、僕が大嫌いな小説を書いたという恥辱を背負って、生きていかなければならない。
それがきっと、僕が大嫌いな小説を書いたという僕の罪に対する、当然の罰なのだろう。
罰。
罪。
この世界に、ただの一人も罪を背負って生きていない人間などいない。
僕はただ、小説を書いたことによって、更に新しく、罪を背負っただけだ。
全ての人間は罪人である。
きっと、この意見に対しては、反論を返したくなる人間も、いるだろう。
「そんなことはない。何故なら私は、生まれてきてから今に至るまで、一度たりとも罪を犯したことがないからだ」
きっと、そんなことをいう人間が、いる。
そんな人間に対して、僕は、こう言いたい。
「ならどうして、あなたは今生きているのですか? 罪を自覚した時、どうして自殺をしなかったのですか」
と。
何故なら、生きるとは、そのこと自体が、罪だからだ。
生きることは、そのこと自体が、他者への加害行為だからだ。
僕は、生きること、存在し続ける罪を指して、「存罪(そんざい)」と呼びたい。
存在とは、存罪なのだ。
何故、存在することは罪なのか?
僕たち人間の存在は、他者への加害、他者の犠牲なしには成り立たないからだ。
僕たちは、モノを食べる。
他の生き物を、食べる。
他者の命を、犠牲にすることで、日々を生きている。
仮に、人間以外の生物を、「我々が加害してもよい存在」だとみなし、(これ自体が恣意的な選別に過ぎないが)我々を免罪したとしても、しかしなお、我々の手から罪はなくならない。
我々は、我々と同じ人間に対してすら、加害を行っているのだ。ただ生きるということによって。
最近、ある著名な、テレビ番組にも多数出演しているコメディアンが、社会の多くの人たちから、その発言を批判されるという事態が起こった。
批判された発言は、次のようなものだった。
「世の中が不況になることは、私にとって、愉快なことだ。不況になると、生活が困窮して、性風俗で働く女性が増える。私は、性風俗が好きだ。私が性風俗で遊ぶことが出来る女性が増えるから、私は世の中が不況になることをいつも望んでいる」
この発言が批判されている理由、それは、この発言で表現されている「他者の不幸を望む姿勢」が道徳に反するというものであるというものだ。
経済的理由から性風俗で働く不幸な女性が増えることを願った発言であることが、問題視されたのだ。
しかし僕は、彼を批判するすべての人間を、軽蔑する。
彼らが、自らの罪に、無自覚だからだ。
僕たちはみんな、彼と同じように、他者が不幸であることを願いながら、日々を生きているからだ。
僕たちは、幼い時から、みんな競争をしている。
小学校の運動会。
部活の試合。
高校受験、大学受験。
就職活動。
そして、仕事という競争に、人生のほとんどの時間を、捧げることになる。
これらはすべて、競争だ。そして競争には、勝者と敗者がいる。競争に参加して、自分が勝者になることを目指すことは、必然的に、他者が敗者になることを欲望すること以外のなにものでもない。
他者が敗者になることを願うことは、他者が不幸になることを欲望すること以外のなにものでもない。
もしも、他者が不幸になることを願うことが罪だというのであれば、競争に参加したすべての人間が、罪を犯しているのだ。敗者になりたくて競争に参加するものなど、いないのだから。
では、競争から降りた者には、その罪はないのであろうか?
例えば、受験にも、就職活動にも、仕事にも参加することを拒否した引きこもりは、この罪を犯していないといえるのであろうか?
否。引きこもりでさえ、この罪から逃れることはできない。
なぜなら、例え競争から降りた引きこもりであっても、生きている限り、他者が競争を続けるという状況の結果生まれた利益を享受しているからだ。
引きこもりを養う親は、競争に勝つことで得た金銭によって、引きこもりを養い続けているからだ。
失業者も、年金生活者も、同じである。彼らは福祉に頼っているが、福祉の財源たる税金を納めているのは、現に今競争に加わり続けている人々だ。
競争から利益を得ている以上、引きこもりも失業者も年金生活者も競争に加わる者と同罪である。彼らは生きている限り、競争という状況がこの世界に存在することを肯定しているからだ。
故に、こう言える。この社会に生きるすべての人間は、罪人である、と。
だから、生きることは罪だ。
存在は存罪なのだ。
自殺という選択を選んだものだけが、この罪を許される。
今この国の多くの人々が批判しているあのコメディアンを、本当に批判する資格があるのは、自殺した人だけだ。
彼を批判している全ての人間は、偽善者だ。
自分自身が罪人であるという自覚を持たない、この世で最も醜悪な罪人だ。
もちろん、僕だってその一人だ。
僕もまた、存罪という罪を、生きるという罪を犯し続ける罪人なのだ。
これからもずっと、僕はこの罪を犯し続ける。
僕は、きっと、自殺なんてしないだろうから。
僕は、死ぬのが怖いから。
僕には、生きている理由なんて、死ぬのが怖い以外に存在しないのだ。
そしてきっと、この世に生きる人間たちのほとんどが、この点では、僕と同じなのだ。
ただ死ぬのが怖いから、生き続けるだけなのだ。
いつか僕は、この罪に対する、罰を受ける。
世界中のすべての人間が、僕と同じように、必ず罰を受ける。
生きるという罪を犯し続けるすべての人間が受ける罰。
それは、死だ。
誰も、死という罰から、逃れられることはできない。
どんなに死にたくないと叫んでも、泣きわめいても、誰も死から逃れることはできない。
僕たちは、生きるという罪を犯し続ける。
死にたくないから、生きるという罪を犯し続ける。
そして、その罪に対する罰として、死ぬ。
僕が、僕が書いた大嫌いな小説を、決して削除することが出来ないのと同じように、僕と世界中の多くの人たちは、例え生きるという罪を自覚したとしても、自殺という選択を選ぶことが、出来ないだろう。
僕たち人間という存在は、悲劇だ。
望んでこの世に生まれてきた人間なんて、一人だっていないはずなのに、死への恐怖を本能として刻まれ、生という罪を犯し続ける。
どんなに自らの罪を自覚し、許しを乞うたとしても、最後には死という罰を、無慈悲に与えられる。
こんな僕たちの生が、悲劇でなくて何だというのだろう?
そんな、僕たちすべての人間が宿命的に背負っている罪と悲劇性に気付きもせず、ただあのコメディアンを悪者扱いして、彼への罵倒を繰り返すこの国の大衆を、知識人を、僕は軽蔑する。
僕が書いた、僕が大嫌いな不幸な小説たちと同じかそれ以上に、僕はこの国の人々を、軽蔑する。
自らの罪を自覚しろ!
誰もが加害者にならざるを得ないこの世という地獄を知れ!
2
「誰もが加害者にならざるを得ないこの世という地獄を知れ!」
この文章を、キーボードを使って、PCの液晶画面上に記述した時、ドアをノックする音が背後からした。
椅子に座りながら、向かった机に置かれたPCを使って文章を書いていた僕は、振り向いた。
僕が今いるこの部屋に、入り口は一つのドアしかない。
そのドアから、ノックの音がしたのだ。
おそらく、父か、母が、ノックをしたのであろうと、僕は推測した。
たとえ家族であっても、それぞれの部屋に入る前はノックをして、入室許可をもらうこと。それが、我が家のルールだ。
それに、僕はいつも、自室の部屋に鍵をかけている。
だから、誰であろうと、僕の部屋に入ろうとするものは、ノックをする必要があるのだ。
僕は、ドアに歩み寄って、鍵を開け、ドアを開いた。
僕の部屋のドアの前に立っていたのは、父でも、母でもなかった。
僕の部屋の前のドアに立っていたのは、僕の家族では、なかった。
そこに立っていたのは、僕がこれまでの人生の中で、一度も出会ったことがない、二人の人物だった。
男と、少女が立っていた。
男は、僕と同じくらいの年齢に見える若者で、少女は学生服を着ていた。少女は片手に何かを持っている。
僕は、思考が完全に止まってしまった。
自分と家族しかいない家で、いきなり見たことがない人物が現れて、そうならない人間がいるだろうか。
彼らは、無言で、僕の部屋に足を踏み入れてきた。思わず、僕は後ずさった。
男と少女が、僕の部屋の中に立った時、僕は、少女が片手に持つものがなんなのか、わかった。
それは、抜身の刀だった。これまでの僕の人生の中で、時代劇の中でしか見たことがない物体だった。
「僕の名前は、高杉真司」
男が、口を開いて、言った。
「私の名前は、牙城戦」
続いて、少女が言った。
たかすぎしんじ。
がじょういくさ。
その二つの単語の発音の意味を、僕の頭が、考えようとし始めた時。
僕は、死んだ。
牙城戦が、目にも止まらぬ速さで刀を振るい、僕を斬首したからだ。
ぶしゅ。
そんな音と共に、僕の頭部は、僕の首から下の体から切断され、床へと落ちた。
勢いよく噴き出した鮮血が、天井を赤く汚した。
僕の体が、床に勢いよく倒れ、ずしんという音が一瞬、室内を満たした。
僕の人生という悲劇は、こうして、牙城戦による殺害という形で、終わりを迎えた。
3
僕の部屋に立ち、僕の死体を見下ろしながら、高杉真司と自称する男は、語り始めた。
「僕たちが誰なのか、あなたは当然、分かっていますよね」
当たり前だ。
高杉真司は、僕の書いた「人類をほろぼす党 政見放送」という小説の主人公だ。
僕を殺した少女が自称した牙城戦という名前は、僕の書いた「僕の彼女は殺人鬼」という小説に出てくる女子高生の名前だ。刀を持っているのも、彼女と同じ特徴だ。
僕が書いた小説の登場人物と、同じ名前の人間が、僕の部屋に現れたというわけだ。
「私たち二人は、あなたの子どもよ。あなたが書いた小説に出てくる私たちは、あなたにとって子どもも同然のはずよ。そして私たちにとって、あなたは親も同然の存在なのよ」
牙城戦と名乗る少女が、語った。高杉真司と同じように、僕の死体を見下ろしながら。
「だけど、あなたは、私たちを生み出しておきながら、私たちの出てくる物語を、憎んだ。それは、私たちを憎むことと、同じことだわ。親に憎まれることほど、子どもにっての苦しみはないのよ。だから私は、こうしてあなたを殺したのよ。私たちを生み出しながら、私たちを憎んだことに対する、復讐としてね」
「彼女にそれを提案したのは、僕なんです」
高杉真司が、牙城戦から、言葉を引き継いだ。
「あなたは、僕が出てくる小説の中で、僕の口を通じて、語りましたよね。人が生きることは、ただそれだけで、罪だと。だから僕も、あなたを憎んだ。僕は、この世界に生まれたくて生まれたわけじゃない。あなたが自分の小説の登場人物として、僕を生み出したのです。僕が生きるという罪を犯しているのは、あなたが僕を産んだからだ。僕に生きるという悲劇を与えた罪を、あなたに償わせるために、僕はあなたの死を願ったのです」
そう言い残して、高杉真司と牙城戦は、僕の部屋を出て行った。
後にはただ、机の上で開かれたPCと、僕の死体だけが、残された。
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