とある展示用に書いたそれなりに詳しい自分の半生

「よく歴史に残るレベルの人が大きく展示されるときに、会場入ってすぐの壁にでっかい紙でずらっと一生を書かれるみたいなやつをやろうと言われたので、書いたやつです。グループ展が終わったらその紙は持ち帰り、ずっと押入れに仕舞われているのですが、しかしながら僕という人間を把握するには良い資料なのでここに載せておこうと思います。」

というコンセプトでグループ展当時の2021年までの詳しい略歴を書いていましたが、随時更新していこうという気持ちになりました。様々な場面で使える可能性があるので。

以下、堀江たくみのそれなりに詳しい略歴です。


堀江たくみ 陶歴

一九八八年|昭和63 堀江家の3人兄弟の末っ子として大阪府守口市に生まれる。本名堀江匠。

二〇〇〇年|平成12 大阪市立太子橋小学校 卒業。

二〇〇二年|平成14 コロコロコミックと少年ジャンプしか知らなかったとき、母の実家に置いてあった「じゃりン子チエ」を読んで衝撃を受ける。また道で拾った少年サンデーに当時連載されていた「かってに改蔵」を読んで、こちらも衝撃を受ける。自分の漫画観に大きな影響を与える。

二〇〇三年|平成15 大阪市立今市中学校卒業。当時通っていた塾の先生に「堀江の成績だったらここ」の一言で大阪市立高等学校理数科に進学。自分のやりたいことへの自覚の無い子供であった。

二〇〇三年|平成15 高校では吹奏楽部に入部。チューバを担当。何かを表現する楽しさを味わったり、初めて彼女ができたり、真っ当な思春期を送る。

二〇〇五年|平成17 数II・Bの後半からだんだんと授業についていけなくなり、数III・Cではっきりと、自分には数学の才能が無いことを悟る。どの大学に進学したいか考え、両親が美術系出身であること、姉が京都精華大学に通っていることを見て、自分も美術の方面に行きたいと思うようになる。進路相談のとき担任にそのことを言うと「僕は数学の先生やから、堀江がそっちに行きたいなら僕が教えられることはもう何もない」と言われる。浪人はしたくなかったのでデッサンの無い受験で行ける大学を探す。

二〇〇六年|平成18 センター試験にて一番の得点源だった数学をケアレスミスで大きく落としてしまい、それによりセンター利用で受けていた大阪芸術大学の写真学科を落ちる。近畿大学の芸術学科に一般入試で受験し、合格する。

二〇〇六年|平成18 大阪市立高等学校理数科を卒業、近畿大学文芸学部芸術学科造形芸術専攻に入学。授業で初めて陶芸に触れ、一気にハマる。

二〇〇九年|平成21 最低限の単位だけ取得し、あとは陶芸でオブジェを作ったり友人と居酒屋に行ったりだけをして将来のことなど何も考えずに過ごす。秋に教授から進路を聞かれたので、就職はしたくないので院に進みますと言うと、もうほとんどの大学が願書を締め切っていると言われ、焦る。

二〇一〇年|平成22 かろうじて金沢美大の願書が受け付けていたので、急いで申し込み、受験する。このとき金沢が日本のどこにあるかも知らなかったので、受験に行ったとき寒すぎてびっくりする。運良く受かったので、金沢美術工芸大学修士課程美術工芸研究科陶磁コース入学。

二〇一〇年|平成23 初めて石川の日本酒を飲んで、そのおいしさに衝撃を受ける。

二〇一一年|平成23 制作のテーマやコンセプトについて、悩みに悩む。涙がとまらなくなったり、血尿が出たりする。現実から逃げるように漫画を買い漁るようになる。2年間で200冊以上購入する。

二〇一二年|平成24 なんとか修了制作を提出し、そのまま修了する。提出用の制作が辛すぎたので、これからは勝手気ままなものを作ろう、と提出後に制作した小さなオブジェに女の子のキャラクターを初めて絵付けする。修了後は、近畿大学文芸学部芸術学科の非常勤助手として4年間勤務する。その頃から本格的にキャラクターを扱った作品やザラザラした質感の研究を始める。また、この4年間は日本酒の店に特にたくさん通った時期であり、日本酒に対する知見を独学で深めていく。

二〇一五年|平成27 藤城嘘企画 カオス*ラウンジ7「穏やかじゃない」参加。東京での初めての展示となる。そのときのオープニングパーティーで作家のTYM344氏と知り合い、グループ展「’’KITAJIMA/KOHSUKE’’♯13〜池と怪物編〜」へ誘われ、参加する。

二〇一六年|平成28 助手を辞めることが決まっていたので、記念的に大阪難波にあるオソブランコギャラリーにて個展「viewpoint」開催。

二〇一七年|平成29 週一で大阪の陶芸教室でバイトしながらもほぼ無職状態だったところに、陶芸家の四井雄大に誘われ、金沢に引っ越す決意をする。引っ越しの費用を貯めるために一時的にAmazonの倉庫バイトをする。この時期はほとんど陶芸制作をしておらず、A4紙にひたすらドローイングをして一発書きの練習をしていた。費用が貯まり、7月末に引っ越し、無事にシェアハウスを始める。家は通称「キタイッサカ」と呼ばれるようになる。不定期的に家の土間を利用したイベント「土間〜ケット」を開催していく。

二〇一八年|平成30 10月末〜11月中旬にかけて、西荻窪にあったオルタナティブスペース「中央本線画廊」にて、個展「いつだって僕ら曖昧で、静かすぎて眠れない」開催。12月にゲンロン カオス*ラウンジ五反田アトリエにて杉本憲相・堀江たくみ・宮下サトシによる三人展「わたしはお皿に落書きをしません。」に参加する。

二〇一九年|令和元 「TOKYO2021美術展 un/real engine ―― 慰霊のエンジニアリング」にてカオス*ラウンジ作品「東海道五十三童子巡礼図」制作に参加。3体のキャラクターを描く。また12月には東京にある「あをば荘」にて、堀江たくみ・四井雄大二人企画「堀江たくみと四井雄大の展でのふるまい」開催。

二〇二〇年|令和2 緊急事態宣言の影響によりバイトが1ヶ月休業。新型コロナウィルスに関する事情により、門阪くんが居候として住みだす。彼の手によりキタイッサカのyoutubeチャンネルが作られたりする。休業期間の時間を利用して釉薬の調合を改良し、より多くの色を使って表現できるようになる。7月に藤城嘘企画 カオス*ラウンジXI「キャラクターオルガナイズ」参加。

二〇二一年|令和3 新宿眼科画廊にてグループ展「故郷」に参加。この展示期間に一部重なるかたちでギャラリー数寄の展示「キタイッサカ・ザ・ライド」に住人枠で参加。ほどなくして門阪くんが関東に引っ越す関係で居なくなり、入れかわるようにして西川くんが居候として住み始める。

二〇二二年|令和4 4〜6月にかけて金沢、福岡、愛知、東京で立て続けにグループ展に参加したり個展をしたりする。有益な体験の代償として、非常にへとへとになる。

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