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すしとあの人・158 「龍造寺隆信」

今週と来週は、歴史学の世界では結論がまだ出ていないことを取り扱いましょう。まずこの人、龍造寺隆信。歴史好きな人はご存じでしょう。
九州は肥前の戦国時代の人。小さい時に出家していましたが、天文15年(1546)、還俗します。以後の活躍はいうまでもなく、やがては肥前全国を統一する武将になったのです。天正8年(1580)、佐賀城を引いて今の須古城に隠居しますが、政治や軍事の実権は握り続けました。
 
さて、須古といえば須古ずし。箱の中からラケット状のへらで取り出す、全国でもめずらしい「すくいずし」に分類されるものですね。この須古ずしの起源は500年以上も前にさかのぼり、善政を敷いた当時の藩主に、感謝の意味をこめて献上された、といいます。
では、それだれなのか? 残念なことに、どれだけインターネットでさがしても、実名は書いてありません。
 
それでは…というわけで、500年ほど前の「当時の藩主」について調べてみました。すると出てくるのが須古城。佐賀県でも最大規模を誇る城郭を持つ、難攻不落の名城です。城主は室町以降、平井家が務め、平井経治のときに城を攻められて、平井家は廃絶します。それを成し遂げたのが、あの龍造寺隆信だったのです。天正2年(1574)のことでした。
天正2年(1574)は今年(2024)から450年前です。ずいぶん前から「500年ほど前」といわれていますから、それが龍造寺隆信の時代だったというと、ちょっと古い話になりますね。
ということは、これは平井氏の時代といえましょう。
 
ところが「須古 善政」でインターネットを探してみると、龍造寺隆信の義弟の名前がひとつ。この人が須古鍋島家の始祖ですから、政治もよかったのでしょうか。その次に挙がるのは龍造寺隆信。小さかった須古城を整備改修して、佐賀一の名城にした人です。
それに引き換え平井経治は、「当代無双の勇士」とはいわれているようですが、善政をしたとは思えません。
というわけで、須古ずしはだれのために作ったのか、わからないままです。ま、戦国時代には「すくいずし」などなかったわけですから、こんな議論をすること自体、なんの意味もないのですが…。
 
だけども、そうばかりもいってられない事情がありました。以下、次号です!

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