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すしとあの人・154 「田中絹代」

黎明期から日本映画界を支えた、大正末期から活躍した大スター。日本映画史を代表する大女優の一人として語られます。大正14年(1925)、すでに15歳で主役を張り、昭和6年(1931)には日本初のトーキー映画(セリフや擬音、音響すべてが入っている映画)「マダムと女房」で、甘ったるい声を披露しました。これで、全国の銀幕ファンの憧れの的となったのです。
 
昭和8年(1933)、川端康成原作の「恋の花咲く 伊豆の踊り子」の主演も演じました。これはトーキー映画以後に作られた無音の映画ですが、サイレント版映画(音楽だけは入るが、セリフは入っていない映画)でありました。それはさておき、驚くべきは川端康成の名声です。今なら誰もが知っている昭和の大作家でありますが、彼がこんなにも有名になるのは昭和43年(1968)のノーベル文学賞受賞以後のこと。もちろん文学愛好家の間では有名ではありましたが、一般には「カワバタヤスナリ? 誰、それ?」ていどでしかありませんでした。それでもこの映画が大当たりしたのは「田中絹代」という看板女優のおかげ。それほどすごい人気でした。
そして昭和12年(1937)、川口松太郎の「愛染かつら」が発表。翌年の映画化では田中と上原謙の主演で、空前の大ヒットとなりました。一部マスコミでは「日中戦争さなかの暗い世相を吹き飛ばした」ともいわれています。まさに、社会現象だったのです。
 
さて、田中絹代はすし好きでした。満州に訪れた時には、漫画家の古谷三敏の父親が奉天(現・瀋陽)でやっていたすし屋によく寄っていたそうです。
戦後は映画監督として6作品を撮っています。小津安二郎監督の昭和29年(1954)12月18日の日記に「二時すぎ田中絹代くる 月についていろいろ話す 有職ずしと鮒佐の佃煮もらふ」とあります。「月」とは彼女が撮った「月は上りぬ」という映画のことで、すしと佃煮を持って、自分の作品について本職の監督の批評を聞きに来たのかも知れません。
「有職ずし」とは「茶巾寿司」や「ちまき寿司」を名物とした東京・溜池のすし屋で、のちに赤坂へ移動。一時、商号でもめていましたが、今は溜池に戻って店を営業しています。創業は昭和8年。
あの映画「恋の花咲く 伊豆の踊り子」が封切られた年です。何か、因縁めいたものを感じるのは、私だけでしょうか?

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