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すしとあの人・157 「政井みね」

最初にいっておきますが、ここで記すすしの話と政井みねは、直接、関係はありません。でも、ここで記したような、多分、うれしくもあり、実は悲しい「すし」の話の象徴が、政井みねであるのです。
「政井みね」って、いったい誰でしょうか?
ノンフィクション作家・山本茂実が著した「あゝ野麦峠」に出てくる、最後の画面で「あぁ、飛騨が見える」とつぶやきつつ最期を迎えた、あの若い娘です。
 
明治の日本は富国強兵策の一環で、品質のよい生糸を売って、外貨を稼ぐ必要がありました。よい糸を取るには若い女性の手が必要で、その募集は貧しい農村部に向けられます。その頃、地方の農村では「口減らし」のために出稼ぎに出る者が多かったのです。
岐阜県河合村(現・飛騨市)に生まれた政井みねも、そんな中のひとりでした。100人を超える集団で、隣県・長野の岡谷の製糸工場に働きに出ました。時期は明治36年2月。故郷と岡谷のちょうど中間にある野麦峠は、交通の難所で知られるうえ、冬場はさらに過酷となり、雪の刃が若い娘たちの肌に刺さって「野麦の雪が真っ赤に染まる」とさえいわれるところでした。
 
明治の頃です。労働基準法といった法律などあるわけもなく、みねたち女性、というより少女労働者は、本当に劣悪な環境で働かされました。しかし、そこでもらえる給金は、農家にいる頃に手に入れる報酬よりもはるかに高かったばかりでなく、同じ工場で働く男性労働者よりもよい給金がもらえたりもしました。そのため、みんな一生懸命、働きました。政井みねは工場の模範女工となり、通称「百円工女」という、年収が小学校の教員と同じくらいにまで上り詰めました。
ですが、そんな彼女を待っていたのは自らの不治の病の知らせ。政井家に「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報が届き、兄・辰次郎が迎えに来ます。途中、野麦峠にさしかかり、兄の背中の上で「あぁ、飛騨が見える」とつぶやき、そのまま天に召されてしまいます。
 
ここに明治33年4月の寄宿舎の献立があります。朝は「香々、味噌汁」。昼は「唐菜」か「目刺し」。夕食ですら「揚豆腐」や「刻み昆布」という状況でした。でも3日の夕食は「鮓」とあります。もちろん握りずしなどではなく、野菜が少しばかり混ざった五目ずしだったでしょうが、それでも「大ごちそう」です。
少女たちはこんなところに喜びの種を見つけ、明日の辛い労働の糧にしたのでしょう。

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