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すしとあの人・156 「大島渚」

前回に引き続きまして、映画監督です。ただしこちらは現代、といっても昭和30年代半ばから活躍した、大島渚です。
それまでの監督、たとえば戦前の小津安二郎が、学暦は中学卒であり、それでも人々の感動をさらっていったのですが、昭和も40年代に入ると、映画監督といえども歴とした大学卒。制作映画も「それなりのもの」をレベルキープしていなければなりませんでした。
大島渚も京都大学出身です。作る映画は政治に関するもの、反社会勢力に関するもの、性に関するもの、など、タブーの世界に踏み込んでいったのです。特に高い社会性や政治性が大島の特徴といわれておりました。国家権力に侮蔑される人間の屈辱感を描き出し、自身も権力に闘争的に対峙する姿勢を貫いた人だったのです。
 
以後の大活躍はいうまでもないでしょう。映画では世界市場も視野にして、国際映画の監督として名を馳せただけでなく、文化人としての立場も築き上げます。テレビ出演も多数。「朝まで生テレビ」では重なる「バカヤロー」発言で世の注目を集め、盟友・野坂昭如とは殴り合いのケンカで有名にもなりました。
けれども63歳のとき、ロンドンで脳出血に倒れ、からだは不随。以後はリハビリ生活を余儀なくされます。妻の小山明子は介護に疲れ、4年ほどはうつ症状に悩まされたといいます。
 
そんなあるとき、孫が誕生日に「回転ずしに行きたい」とおねだりをしました。でも「ちゃんとしたすし屋でなければダメだ。大島の美学に反する」と妻も息子も大反対。すでに映画界やテレビ界では重鎮だった大島には、ちゃんとそれなりに身を整えて行くすし屋があったのでしょう。妻だって、押しも押されもせぬ大女優です。回転ずしなんか、行ったことがありません。
しかし、周囲の反対を押し切り、訪れた人生初の回転ずしは、想像以上に楽しいところでした。終始、大島はご機嫌。生ビールを飲んで、孫と張り合ってお皿を重ねていたそうです。その時、「もう、何をいわれても気にしない。大島は映画監督だから、と肩書や世間体に縛られていたことで不自由になっていたことに、やっと気づいたんです。そんなものは手放せばいいんです」と悟った妻。これ以降、うつ症状から抜け出せて、女優業も復活したのです。
 
平成22年10月の金婚式では家族や親しい人たちがお祝いに集まり、大島もシャンパンを口にしました。その時出たのは、まさか回転ずしではなかったでしょうね。
それから3年後。大島は静かに旅立ちました。

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