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進撃の巨人読み終わって気づいたこととか。

進撃の巨人が先週終わった。
小中学生向けのマンガやけど、だからこそというべきか、
民主主義や平和といった価値観が大きく揺らいでいる今日の状況を、この現実を背負って生きなくてはならない未来の大人たちの問題意識を、照らし出しているところがあって、いろいろと考えさせられること、気づかされることがあった。
(以下、ストーリーにも触れます。ネタバレには気をつけますが、ご注意ください。)

壁に抗う

「壁」に守られ、「壁」の中で平和に暮らす主人公たち。外界への興味を持つことはよくないことであるという同調圧力。じつは集団的な記憶改竄も行われていた。という設定はいやおうもなくわたしたちが生きているこの国の閉塞感を思わせる。

わたしもわたしの子供たちも、小学校ではいわゆる戦後民主主義教育を受けてきたのだが、「戦争は悲惨です」「日本は間違っていた」だから贖罪のためにも「平和を希求しなければならない」という社会科の学習に、わたしはどこか胡散臭さを感じていた。上の息子が「8月になると戦争のかわいそうな話ばかりでいやだ。」と言ったときにも返す言葉がなかった。
リベリオ収容区の大人たちもきっと同じような覚えがあったのではないか。
そして壁の中で同調圧力に違和感を持つ少数の者たちもまた。

(読者しかわからへん書き方でごめん。背景説明→)主人公たちの民族「エルディア人」はかつては世界を支配していたが、大陸の大国「マーレ」に敗れ、故郷の島に閉じこもった。敗走の際に大陸側に取り残された残留エルディア難民が「リベリオ」と名づけられた収容区に押し込められ、贖罪のためにマーレの兵士として(ときに人間兵器として)エルディアと戦うよう教育され強制されている。

ガザで、新疆ウイグルで、あるいはヨーロッパやアメリカ、そして世界で、少数民族や移民や敗者たちが受けてきた/受けている「同化政策」の光景が、日本の私たちの状況とつながる。
日本もまた、大きな収容区であって、敗戦国の民たちはアメリカ消費経済のための同化教育を受けているとも見ることができる。そしてそれは今も進行中だ。


「壁」の中の閉塞感の話にもどろう。
主人公たちは、自分たちを取り巻く同調圧力に抗い、外の世界に興味を持つこと、行って見ること、考えること、つまり好奇心と行動と思考で立ち向かう。
インターネットとSNSに埋もれ、いっけん情報には不自由していないと思っているが、じつは好奇心も行動能力も思考習慣も痩せ衰えている、わたしたちに向けての痛烈な、そして大切な指摘であろう。


正義のない時代のわたしたち

進撃の巨人という話の白眉は、主人公たちが身を捧げてきた正義が、共同体が、じつは視点を変えると「悪魔の所業」でしかなかったという善悪の逆転の設定にあると思う。
近代を駆動してきた、民主主義や経済発展といった進化論的なイデオロギーが疑問視され、キリスト教や西欧文化がけして普遍的なものではないことが明らかになった現在、私たちもまた絶対的な正義や善悪の論理に頼ることはできない。
「正義」の失われた不確実な時代を生きていく主人公たちが、敵の事情すなわち「他者の論理」にぶつかり、傷つき、理解しようとして、成長してゆくところが素敵だ。

愛を超えて

最終的にキリスト教的な「愛」が世界を救ったように見えるが、じつは「愛」をも超克してゆく、仏教的な諦念でしか世界は開けないともとれる。いや、そのような既存の宗教や哲学を超えたところに、この先の未来は広がっているのだろう。
結びの編集部からの言葉にあるとおり、私たちの前に広がっているのは、まだ言葉になっていない「何か」であり、それはわたしたちが「戦って」かたちにしてゆかなくてはならないものなのだ。
わたしたちの好奇心と行動と思考を使って。



長編やし、コマが滑らかに進まん描き方とゆうか文体、一歩ひいた画角やちょっと突き放したような描写がとっつきにくい(じつは一度挫折して、読むのを中断してた時期がある)けどこれも個性なんやろ。
はじめはきたない絵やなと思ってたけど、慣れるとじつは絵がうまいことがわかる。なにより巨人たちのあの表情、西欧人たちが社交的に顔面に貼り付けている笑顔の戯画のような表情が作る世界観がたまらない。
(ストーリーが追いづらいときは先にアニメを見るとわかりやすい。「個性」は消えてるけど別の臨場感があってこれはこれで迫力。)

時間のある方はぜひ一読を。そして感想をお聞かせください。

(上記はあくまでわたし個人の感想であって、進撃の巨人じたいが政治的な言及をしているということではありません。)



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