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名馬紹介 マルゼンスキー

【名馬紹介 マルゼンスキー】
TTG世代の一年後輩、「怪物」とか「スーパーカー」と呼ばれたマルゼンスキー(1974年生 牡馬)を紹介します。なお馬齢は当時の数え方で記載しますので、いまより1歳ずつ多いこと、ご留意下さい。(記載3歳→いまの2歳)

1、出生
彼の母シルは米国馬です。英国の三冠馬で歴史的名馬のニジンスキーの仔を宿った状態で日本に輸入されました。彼は北海道生まれですが、当時の区分では「持込馬」とされました。
1970年代、JRAは国内畜産業保護の観点から、外国産馬と持込馬が出走できるレースは厳しく制限されており、当時のビッグレースでは有馬記念と宝塚記念くらいにしか参戦できませんでした。

2、3歳時
デビュー戦、2戦目と2着にそれぞれ10馬身、9馬身と大きな差を付けて勝ちました。3戦目の府中3歳ステークスでは、騎手が楽に勝たせようとし過ぎてスピードが上がらず、2着のヒシスピードにハナ差に迫られる辛勝になりました。
続く朝日杯3歳ステークスは、彼が生涯で唯一真面目に走ったと言われるレースです。結果は前回追い詰められたヒシスピードに2秒以上の大差を付けて、彼我の実力差を見せ付けました。この勝利によって、1976年の最優秀3歳牡馬 に選出されています。
いずれの勝利も他の馬とスピード能力が違いすぎるため、スタートから一人旅をして、差を広げてゴールするという逃げ切りでした。

3、4歳時
軽度の骨折をはさむも、上半期も3戦3勝。しかし前述の通り、持込馬の彼はダービーに出走できません。当時の主戦騎手が「ダービーに出して下さい。一番大外の枠で結構です。他の馬の邪魔もしません。賞金もいりません」と訴えましたが、当然ながら願いは叶いませんでした。
夏は北海道のダート競走から再始動しました。ここでもレコードタイムで圧勝しており、馬場の種類も関係ない強さを見せつけました。レース後には、2戦走ってから、有馬記念に参戦すると発表されました。
ところが調教中に怪我をして、有馬記念への直行が決まりました。一度狂った歯車は戻らず、有馬記念前の調教中に屈腱炎を発症し、電撃引退が決まりました。生涯成績は8戦8勝です。

4、彼の実力
彼が出走を断念した有馬記念は、テンポイントとトウショウボーイがマッチレースをした伝説のレースです。マルゼンスキーが出走していたら、彼らを置いてきぼりにして、悠々と逃げ切り勝ちしていたのかもしれません。
そうなれば、伝説の有馬記念はおろか、美しくも激しかったTTGの競い合いの歴史を、木っ端微塵に壊していたかもしれません。
あれから50年近く経った今でも、TTGとマルゼンスキーの闘いを見たかった気持ちと、この終わり方が良かったと思う気持ちが混在しています。

5、種牡馬として
彼は種牡馬としても大成功を収め、ダービー馬のサクラチヨノオーなど4頭のG1馬を輩出しています。また、未だ外国馬が圧倒的に優勢だった1988年に、種牡馬ランキングの2位に輝いています。
母の父としても優秀で、スペシャルウィークをはじめ数多くの活躍馬を輩出、いまでも血統表に、彼の名前が見られます。

6、最後に
彼の走りっぷりは世界と日本馬の実力の違いを見せつけました。まさに江戸時代の黒船来航のような衝撃です。その後の開放政策への流れの発端になった馬であり、TTGと共にいまに繋がる近代競馬の幕開けを演出しました。
なお、外国馬にダービー出走が開放されたのは2001年、怪物の出現から四半世紀の時が必要でした。


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