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奔馬とかつ丼

男女の交互の視点から見た物語です。


準急も停まらない私鉄の小さな駅。
その駅前からさらに徒歩で30分という絶望的立地に、この、何かの間違いで出来てしまったような商店街はある。

商店の多くはシャッターを閉めており、どうやって生計を建てているのか謎の店ばかりが立ち並んでいる。
薄暗い寝具店だの、ミカンしか置いていない果物屋だのだ。(あるいは陳列棚で寝ている猫も売っているのかも知れない)
救いようのないラインナップのリサイクルショップでは、不機嫌そうなババアが往来を睨みながら、埃まみれの二十年前のゲーム機(コード・コントローラーなし)に8000円の値札をつけている。どこからそんな強気な価格設定が出て来るのか。どうみてもリサイクルの輪廻を解脱したものしか置いてない。

この何かの呪いのような陰鬱な商店街。
しかし、ここが熱狂に包まれる事が一年に一度あるのだという。 
その履物屋の親父は、俺が聞いてもいないのに勝手に語りはじめた……。

 ――昔、この商店街の中を、馬が駆け抜けた事があるらしい。

何かの拍子に、運ばれている途中で逃げ出した馬がアーケードを走り抜けた。ただ、それだけの出来事だったのだが、多少ニュースにもなり、商店の主がチラリとテレビに映ったりもしたらしい。
この風化した商店街の人々にそれは、随分、刺激的な事件だったようで、長く語り草になったという。

それだけなら、大した話でもないのだが、 時間が立つにつれて、彼等の間で暗い欲望が芽生えた。
そう、事件が風化していくにつれ、日常に物足りなさを覚えるようになってしまったのだ。

 ――もう一度、この商店街に馬を走らせたい。

誰言うとなく、そういう話が浮かび上がったのだという。
そしてそれは、誰のどういう力によってかは分からないが、毎年一回、恒例の行事となった。

奇妙な連帯感と秘密。

ある日突然、商店街を馬が駆け抜ける。彼等はその日への期待だけで毎日を生きているのだ。
毎年の傾向から見て、今年はもう、いつ来てもおかしくないんだよ、と暗く熱っぽい眼で、履物屋の親父は話を締めくくった。
狂っている。 このおっさんも。この街も。

健康サンダルを紙袋に入れてもらうと、俺は薄暗い商店街を後にした。
どこかで馬のいななきが聞こえた気がしたが振り返らなかった。俺はまだ、そんな事を楽しみにして生きたくはない。


短大を出た後、なんとなしにずるずると就職しそびれて、いまだに仕送りをもらっている。安いというだけで選んだ薄暗いアパートで、ぼんやりと生温い暮らしをしているうちに日付けの感覚もなくなってしまった。

「なんとかしなくっちゃ」

声に出して言ってみたが、まるで現実感がない。笑ってしまった。
一度、同期の子たちが訪ねてきた事があった。
彼女達は絶句していた。おしゃれな服に身を包んだ彼女らとすっぴんの私は傍目には舞踏会へ行く継母たちとシンデレラのようだったかもしれない。

彼女たちは口々に、こんな所にいたら人生終わりだよ、といった趣旨の事を言い、その後、どこそこのなんとかが 美味しいだの、可愛い鞄やら服やらの話だの、恋の悩みだのを話して帰って行った。
私の人生が終わっているとして、彼女達の人生で何かが始まっているとも思えなかった。

適当にその辺にあった服を着て商店街に出る。
商店街といっても、ゴーストタウンに毛が生えたようなものだ。私以外に若い女性がいるのを見た事がない。
行く場所はいつも決まっている。この商店街で最も活気に満ちた場所。そう、碁会所だ。
ここで、年金暮らしのおじいちゃん達と碁を囲むのが私のもっぱらの日課だ。楽しいという事もないが、つまらなくもない。300円払えば一日遊んでいられるし、お茶も飲み放題だ。
初めて入った時は誰もが私を何なのか認識できず凍り付いた。客だと分かった 時には、ちょっとした恐慌状態だったのを思い出す。

今日は昔の仮面ライダーに出てきた死神博士に似た歯医者のお爺さんと三局打った。
この町には珍しいインテリで、囲碁の腕も私よりずっと上なのだが、だんだんウトウトして、うっかり間違いをしてくれるのでなんとか勝負になっていた。
最近、親知らずが痛むと言ったら、治してやろうか? と死神博士が顔を皺くちゃにして笑った。しかし手真似のジェスチャーがノミとトンカチだったので遠慮しておいた。

アパートに戻る と、カレンダーに○を一つ、×を二つ書き足した。
ぼんやりとそれを眺めながら、勝ち越したら働こう、と思い、電気を消して寝た。



ル・パサージュ・スクレ。
「秘密の抜け道」と名付けられたそのフランス料理店は、さびれた商店街のさらに外れの路地を抜けた先に、ひっそりとあった。
シェフの腕は確かで値段も手ごろ。隠れた名店だ。
問題は、隠れすぎていて誰もその存在を知らない事だ。
ただでさえ見つけにくい場所にある上、看板は小さく、外見が民家と紛らわしい。

俺がこの店を初めて見つけたのは、丁度よい立ち小便の場所を探していた時だった。酔っぱらってズボンを降ろしたところで扉が開いて、真っ白なクラウン帽のシェフが現れたのだった。少し太目の体型とヒゲが任天堂が誇る世界的ゲームキャラクターに良く似ていた。シェフは笑顔でトイレを貸してくれた。いい人だ。俺は心の中でマリオさんと呼び、敬愛した。

以来、稀にスロットで勝った時などに、時々ここに寄る事にしている。ワインをボトルで一本とコースを頼んでも4000円。安い。
いつ行っても客が俺しかいないのと、うるさい音楽がかかってないのも良かった。いつか彼女でも出来たら連れてくれば喜ぶかもしれない。
まあ、こんな廃墟のような商店街をデートコースに選んだ時点で怒られるかもしれないが。
しかし、この日、沈黙は破られたのだ。

どう見ても堅気ではない男だった。
その男は無駄に大きい音で扉を開けると、じろりと店内を睨み回し、大股を開いてふんぞり返る様に椅子 に座った。
マリオさんの眉が曇った。

「ぅおいっ!」

無駄に大きな声で男が呼びつける。
青い顔でやってきたマリオさんに、男が上目遣いで、ポツリと吐き捨てた。

「かつ丼」

マリオさんが困惑したように、かつ丼は置いてないと言ったが、男はさっきより大きくはっきりと区切った発音で、注文を繰り返しただけだった。
 恐らく何とか言いがかりをつけては、ゆすりたかりを繰り返す類いの、チンピラなのだろう。
マリオさんは少し考えてから、しばらくお待ち下さいと言って厨房へ戻っていった。

俺は、ささやかな楽しみである食事を妨害された事に怒りを覚えていた。
かつ丼が食いたければとんかつ屋かソバ屋にでも行けばいいのだ。この馬鹿野郎が。これ以上、横暴な振舞いをするようなら通報してやろうと、ポケットの中の携帯を確認した。

しかし、こんな訳の分からない袋小路のどんづまりのような場所を警察に上手く説明できるだろうか。こうなったら最悪、俺が体を張って止めるしかないだろう。俺はナイフとフォークを握りしめ、脳内で戦いをシミュレーションした。

15分後、マリオさんが戻って来た。ふた付きの丼を持って。
そして静かに、しかしはっきりとした口調で、かつ丼でございます、と言った。
本当にかつ丼を作ってくるとは思わなかったのか、男は少しうろたえた様子だった。それをごまかす様に、じろりとマリオさんを睨み、丼のふたを開けた。

店内に香ばしく揚がった豚肉の良い匂いがふわっと広がった。
大きめの上質なロース肉。表面がさっくりとした衣。
しゃくしゃくとした歯ごたえを残した薄切りの玉葱。
それらを半熟の卵がとろりと包み、三つ葉の緑がエメラルドの鮮やかさで散りばめられていた。

見ただけで分かる。絶対に美味い。
俺は男の喉が動くのを見過ごさなかった。

男は 恐る恐る確かめるように一口食い、苦悶の表情を浮かべた。
そして爆発するようにガツガツと丼をかっこんだ。 すごい食べっぷりだった。

食べ終わった後、男は一回り小さくなったようだった。
あんなに旨そうに完食してしまっては言いがかりの付け様もない。 大人しく会計して出て行く他無かった。
ほっと肩を落としたマリオさんが俺を見て笑った。

もう我慢できなかった。言うしかない。
俺にも、かつ丼を。



唐突に思い立って糠床を買ってきた。
その日から、私の四畳半は発酵臭に支配された。

特に漬け物が好きな訳ではない。ただ、糠を心のままにかき混ぜたり、ふと匂いを嗅いでみたり、手当たり次第に野菜を漬込んでみたいという衝動が沸き上がってしまったのだ。
そういう時だけ行動力が発揮されるのが私の良いところだ。多分。

毎日世話をしている内に、ペットに対するような愛情も出てくる。実際、菌は生きているのだからペットと言えなくもない。
私は犬猫には人語で話しかけるが、魚や観葉植物に話しかけるのは、なにか一線を越えるものを感じていた。なので糠には心の中でエールを送るに留めておいた。

手始めに片っ端から野菜を漬けたは良いが、当然、私一人では食べきれない。あまり古漬けになってしまうと風味がちょっと苦手なので碁会所に持っていく事にした。
老人たちは大喜びをして、案の定、私を家庭的だとか、良いお嫁さんになるとか、それに比べてウチの嫁は、とか言い出した。

あなたがたは何もわかってない。
違うのだ。私はただ糠床への熱情が抑えられなかったのだ。
家庭的どころか、たとえ夫や子供がいても、今この瞬間は糠床の方が大事なのだ。こんなサイコ主婦では家庭も崩壊するだろう。

以降、碁会所のお茶請けの王座を長年占めていた煎餅は、その地位を漬物に譲ることになった。そして私の入場料は免除された。
困ったことだ 。ますますこの生活に馴染んでしまう。

そんな生活になってから数週間、いつものように漬物を持って私は家を出た。この日は、蕪、小茄子、胡瓜だった。
ふと、路地の奥から良い匂いがした。良く知っている匂いだ。

そうだ。かつ丼の匂いだ。



ル・パサージュ・スクレ。そこで、いまや公然の裏メニューとなったかつ丼を前に俺は陶然と目を閉じていた。
やや半熟すぎるやもしれぬ卵が、今、この瞬間、蓋をされた丼の中で加熱され絶妙の火加減となっていくのが分かる。

それは、丼の中で繰り広げられる創世記。小宇宙の誕生だ。
俺はそれを外側から見守る創造主の気持ちで見ていた。
しかし、蓋の隙間からさえ、鼻孔をくすぐる官能的なアロマは、いつしか俺を超越者から、餓えた一匹の獣へと変えるのだ。

 ――現代に残されたパンドラの箱、かつ丼。
その蓋を取るという行為は神聖で厳かな儀式だ。

俺の心の中の幕が厳かに上がり、交響楽団の指揮者がタクトを振りあげたその瞬間。

店のドアが静かに開いた。
この商店街には似つかわしくない若い女 が一人。

どう見てもフランス料理店の店内。
かつ丼に手をかけたまま彫像のように止まっている俺。
そしてマリオさんに、女はそれぞれ二秒づつ目線を移した。
そしてこう言ったのだ。
  
「あの、かつ丼ってやってるんですか」

奇妙な女だった。
こんな入り組んだ場所までどうやって来たのだろうか、服装からも年齢や仕事といった生活がまるで読み取れない。
本当に適当に着ている感じだが、緻密に計算したお洒落のようにも見える。

それに、妙に落ち着いた態度。
普通に考えればフランス料理屋でいきなりかつ丼を注文するなんてどうかしている。いや、俺も食っていた訳だが。
そんな疑問が押し寄せ、俺はせっかくのかつ丼を気もそぞろな状態で食べてしまった。ぼおっとお茶を飲んでいると、彼女は何かを思い出したかのように何かを袋から取り出した。
店の中に糠の、懐かしいような甘い匂いが広がった。

「あの、漬物持ってるんですけど食べていいですか?」

マイ漬物。謎だ。謎すぎる。自由奔放か。
マリオさんが笑顔で了承する。この人は仏なのかもしれない。
ぽりぽりと小気味良い音をさせて、女は漬物を食べた。

目が合った。

「よかったら食べますか? たくさんあるんで」

俺はつい頷いていた。女はマリオさんにも漬物を勧めた。
昼下がりのフランス料理店で、三人の男女が漬物をかじる音だけが、ぽりぽりと響いた。
それはかつ丼に絶妙に合う、さっぱりとした漬物だった。



碁会所通いの他に、新たな日課が加わった。
商店街の外れの変な場所にあるレストランで、お昼にかつ丼を食べることだ。
そこのシェフ(私が思うにミスター味っ子の丸井シェフに似ている)の作るかつ丼は、なんというか誰もがイメージするかつ丼の理想型に近いと思う。
それを確認しようと味わっているうちに、いつもあっというまに食べ終わってしまうので、夢まぼろしのようだ。

おかげで、よく分からない男の人と知り合いになれた。
お互い名前も知らないのだから、知り合いと言っていいのか分からない。しかし、行けば同じテーブルにつき漬け物を分け合うのが決まりのようになっているのだから他人とも言えないだろう。

私は普通の男がきらいだ。退屈だから。
変わった男はもっときらいだ。疲れるから。
よく分からない男はいい。よく分からないから。

じっと顔を見続けると、すぐに競馬新聞に目を泳がせるのがいい。
いつも変な健康サンダルをはいているのもいい。
お金持ちではなさそうなのに、お金の使い方に無頓着なのがいい。
いつも先に食べ終わって、でも、私が食べ終わるまで席を立とうとしないのがいい。

困った事に、私はずいぶんとあの人を気に入ってしまったようだ 。
もともと私は他人と同じ席で食事をするというのが嫌なのだ。人が食べるのを見るのも、人に見られるのも苦手だ。それが全然気にならない。

私は知っている。これは危険なことだ。

このままだと、きっといつか「いてもいい」が「いてほしい」になり「いないといやだ」になる。
そうなると私の完結した静かで穏やかな生活は壊れ、他人に振り回されて一喜一憂することになる。それはとても面倒くさいことだ。
だが、こういう流れが一度生まれてしまうとそれを意志でどうこう出来るものでもないのも分かっていた。そんな強い意志があればとっくに就職している。

「こまった。こまった」

気が付くと私は糠床に話しかけていた。
菌たちは答えず静かに発酵するだけだった。



久しぶりにスロットで大きく勝ったので、ふとキャバクラなんぞにいってみた。
やたらと肌を露出した、馴れ馴れしい女たち。
むせかえるような香水の匂い。
薄暗い空気の悪い部屋。始終流れている音楽。空虚な盛り上がり。

全てがうっとうしかった。
こんなことなら、マリオさんの店でかつ丼を食いながら、あの奇妙な女と漬け物を食ってたほうが良かった。

いやいや待て。
いくらなんでも、あんな死にかけた町、もとい、死んで干涸びてミイラになったような町に俺は愛着でもあるのだろうか?

そうじゃない。あの女だ。
何も語らず、何も問わない。
それでいて何もかも知り尽くしたような謎の女。
漬け物を持って現れ、碁会所に消えていく女――。

気が付くと最近は、いつもどこかであの女の事を考えていた気がする。 俺はありていに言えば恋をしているのではないか。
最後に人を好きになったのが、いつかも思い出せないこの俺が。
はたと、そう気付いて、俺は湿気ったポッキーを握り潰していた。
手がベトベトになった。

「まいった、まいった」

気がついたらそう呟いていた。横にいた女がおしぼりで手を拭いてくれた。
だが俺がまいったのは、今まで築いてきた俺の自由でクールなライフスタイルが、一人の女の出現で激変しつつあるということだった。



私たちの不思議な昼食の習慣は、まったく予想も付かない形で終了を迎えた。
ある日、いつもにもまして薄暗い店の中に入ったら、あの丸井シェフ似の主人が倒れていたのだ。

動かさずに、呼吸と心音を確認した。まだ生きている。
呼びかけると、かすかに頷いた。
ほどなくして、あの人も来た。一目で状況を理解したらしく、すぐに携帯で救急車を呼んでくれた。

こんな時だが要点を簡潔にまとめた電話の仕方に感心した。まるで、あらかじめ、この入り組んだ場所を誰かに伝えることを何度もシミュレーションしていたようだった。
私たちは救急車に乗って、病院までついていくことになった。

シェフは前から、あちこち悪かったらしい。
病院の白く明るい光の下で見るシェフは、『ミスター味っ子』の丸井シェフというより、『ミスター味っ子2』に出てきたばかりの丸井シェフに近かった。
あの人は、「ルイージ」じゃないかと言っていたが、私はルイージをよく知らない。彼も丸井シェフを知らなかった。
しかし、私たちが指しているものは、要はこのシェフのような状態なのだ。

シェフは数時間後、意識を取り戻し、私たちに礼を言った。
無理に明るく振舞っているのが痛々しかった。
シェフは私に手を出すように言い、何かをしっかりと握らせた。
それは小さな鍵だった。

「君たちにもらってほしいんだ」

シェフはそう言って、いたずらっぽく片目をつむってみせた。
私たちは、深い考えもなく、それをもらってしまった。
その晩、シェフは死んだ。
あっけない、ぽとりと落ちるような死だった。



誰もいなくなった、ル・パサージュ・スクレ。
秘密の抜け道。
そこを通って旅立ったのか、マリオさんは遠い世界へ行ってしまった。

主をなくし、どこかガランとした店内で、俺と彼女は二人きりで向きあっていた。
目の前には店の権利書などの書類とマリオさんの遺言状、そしてかつ丼の詳細なレシピがあった。
鍵は店の金庫の鍵だった。その中にあったのがこれらだった。

遺言の中身は突拍子もない話で、ただの客である俺たち二人にこの店を引き継ぐこと。そしてその条件として、あのかつ丼を完璧に作れるようになることだった。

俺たちはそれについて話した。
ありえない。どうかしている。信じられない。
そうしたことを言い連ねていくうちに、どういう拍子か、とりあえずかつ丼をレシピ通りに作ってみようという話になった。たぶん俺たちは腹が減っていたのだ。


肉の筋切り、卵の火加減、下ごしらえ、油の配合。
それらを再現していく内に、俺たちは感嘆していた。
繊細で妥協の無い気配りと工夫が、レシピの随所に溢れていた。まさに芸術品だ。

あの旨さの秘密が解明されていくのは、ジグソーパズルを組上げるのにも似た、えもいわれぬ快感があった。
まるで、俺と彼女だけが真理の扉の内側に入れる秘密の実験のようだ。
そう思っているのが俺だけでないことは、隣にいる彼女の真剣な横顔からもうかがえた。そのパッター液を掻き混ぜる音さえもが俺の心を震わせた。
 いまや、自分が宿命的に彼女に惹かれているのを受け入れるしかなかった。

そしてかつ丼は完成した。
俺たちはいつもの席に座り、いつものようにそれを食べはじめた。そして、それがいつものかつ丼と決定的に何かが違うことに同時に気が付いた。



私たちの作ったかつ丼は確かに美味しかった。
シェフが作ったものにくらべれば、火の通し加減やご飯の粒の立ち方などではやや及ばないものの、一般的なかつ丼よりはずっと美味しい。

しかし、なまじその完成度の高さゆえに、シェフの作ったかつ丼との異質さが浮き彫りになった。

似て非ざるもの。
馬とシマウマ、熊とパンダのような断絶がそこにはあった。

その日から毎日、私たちは昼になると集まってかつ丼作りに没頭した。
これはあの人に会う口実なのではないか、と自問自答したが分からない。

この世界の涯の商店街で、あの人と二人でかつ丼を作っていく。それは確かに魅力的な夢だった。
そんな、この間まで全く考えていなかった選択肢が現れるなんて誰が予測できただろう?
そして、そんな現実離れした幻のような生活が本当に続けられるのだろうか?


今までだってぼんやりとした薄闇の中で、まどろむような生活をしてきた。
しかし、それはいつかは醒める夢だったはずだ。その終わりがどんな残酷な結末だったとしても、私はそれを受け入れるだろう。それは私の選んできたものの結果なのだから。
しかし、あの人と二人で何かをやっていくのなら、それは醒めない夢でなくてはいけない。

いつか、二人の生活が壊れた時、あの人が私に、私があの人に失望するのなら、きっと耐えられない。

その瞬間を想像するだけで、体がバラバラになって冷たい穴に落ちていく気がする。それくらいだったら、お互いによく知らぬまま、ただ食事をするだけの関係がずっと続いていたほうが良かった。

シェフはどうして彼にでもなく、私にでもなく「二人に」託したのだろう。今となっては少しうらめしい。 それでも私は、店を出て別れた瞬間にはもう、早く明日の昼にならないかという事だけを考えてしまうのだ。

一度動き出した流れは止まらないのかもしれない。



俺たちのかつ丼作りは行き詰まっていた。
記憶の中のかつ丼を美化しすぎているのではないかと思ったが、明らかに何かが違う。この謎を解いてみろという、シェフからの挑戦のように思えた。

二人だけで過ごす時間は楽しかったが、しだいに焦りも出てきた。

このかつ丼が完成しなければ、俺たちは一歩も前に進めないのではないだろうか。逆に言えば、このかつ丼さえ完成すれば、俺は彼女と新しい生活をはじめられるのではないだろうか。

この数日間で、彼女もまた俺に好意を寄せてくれていることはほぼ確信できた。だが、お互いにその気持ちを表に出すためにはきっかけが必要なのだ。

そんなことを思いながら肉の下ごしらえをしていると、不意に店のドアが開いた。表には休業中の札を出していたはずだ。

そこに立っていたのは、あの、いつかのチンピラだった。
この店で初めてかつ丼を注文した男。
奴が、怒ったような目でこっちを睨み付けていた。
男は、初めて来た時と同じ席につき、同じ台詞を言った。

「かつ丼」

俺は動揺した。あきらかに厨房の中からはかつ丼の匂いがしている。無いとはいえない。しかし、これはあのシェフの作ったかつ丼とは違うのだ。

いっそ、追い返すかとも思ったが、その考えを俺に止めさせるのは、男の、妙に切羽詰まった雰囲気だった。
どうするべきか彼女に聞こうと思っていたら、彼女はすでに漬け物を切り、味噌汁の準備にかかっていた。何の迷いもなかった。
こうなったら俺もやるしかない。

かつ丼でございます。
俺はマリオさんの口調を真似て丼を静かに置いた。
男はそれを、食い入るように凝視した。外見はまったく、あのシェフの作ったかつ丼と変わらないはずだ。
男は、それをゆっくりと 口に運び、目を閉じた。

「おい」

俺は、呼びつけられた。一瞬、緊張が走る。
だが、男の声は意外に穏やかだった。

「よく出来てるが、これ、前のと違うよな」

俺は頷いた。

「何が違うか、分かるか」

俺は横に首を振った。

「パン粉だよ。パン粉が違うんだ。ここのコックはフランス料理が専門だったんだろ? パン粉もフランスパンを使ってたんじゃねえのか?」

俺は、あっと声をあげそうになった。
そうだ。レシピには「パン粉」としか書いてなかった。俺たちは、市販のパン粉を買ってきて使っていたのだ。
はたして、冷凍庫の奥をさぐると、 凍らせたバゲットが出てきた。
それをおろし金でおろす。微妙に目の荒い、麦の香りの強いパン粉が出来た。俺は、再度、それを使ってかつ丼を作り直した。
以前より、衣が軽く、さっくりと揚がった。

ふたたび置かれたかつ丼を、男が口に含み、噛み締める。

「これだよ」

男がニヤリとした。俺たちも笑った。
これがパズルの最後の1ピースだったのか。

「ずっとこれが食いてえと思っていたんだ」

男はかつ丼を綺麗に平らげると、万札を置いて席を立った。
俺はお釣りを払おうとしたが、男は首を振って札を俺のポケットにねじ込んだ。

「漬け物は奥のねえちゃんが漬けたのかい。美味かったって言っといてくれや」

そう言って、男が出ていった。
表を見ると、店の前にパトカーが待機していた。警官も二人いる。
男は、警官に頭を下げるとパトカーに乗せられて消えていった。
奴には奴の、俺たちの知り得ない物語があったようだ。



一つの目的が達せられた。
私たちは二人で一つの事を成したのだ。 これが始まりになるのか終わりになるのか、私は答えを出さなくてはいけない。

二人で完全なかつ丼を食べ終わり店を出た。
いつもなら、この後は碁会所へ行くところだが、そんな気にはなれず、あてもなく歩き出していた。
隣にあの人が並んでいる。初めてのことだ。動悸が高鳴った。
迷路のようなアーケードをぐるぐると何度も回った。二人とも無言だった。

何か言わなくては、このまま二度と会えないような気がした。
あの人も私に何かを言おうとしている。それは私が言おうとしている事と同じだろう。でも私たちは、それを上手く表せる言葉を探し出せなかった。

黙って、やみくもに歩いた。あの人は同じ歩調で、どこまでも並んで歩いてくれた。
こんな灰色の町にも、春の匂いのする風が吹いていた。柔らかな日差しの中で、寂れた商店街は何かの遺跡のようにも見えた。
何もかもが優しく、悲しい光の中にあった。不意に涙がこぼれた。

その時だった。馬が走ったのは。

不意に地響きのような音と、歓声がアーケードを包んだ。
この商店街のどこにそんなに人がいたのだろう。二回の窓から、シャッターの隙間から、扉から、沢山の人が熱狂して、真っ赤な顔で、言葉にならない声を上げている。それに追われるように、栗毛の大きな馬が凄い勢いで走って来た。

馬!? なんで? 何が? 何を?

まったく状況が分からず立ち尽くす私に向かって、地響きを立てて馬が走ってくる。不思議とスローモーションに見えるようだ。よく死の直前に走馬灯が見えるというが、走ってくる馬と走馬灯を同時に見るのは馬の要素が多すぎるのではないか。そんなとりとめのない思考があふれ出す。

間一髪のところで、あの人が強く私の腕を引いた。
そのまま、私をかばうようにぴったりと覆いかぶさる。私は体を固くした。頭のすぐそばを、四つのひづめが、轟音を 立てて駆けていった。

もう大丈夫だから。
そう言おうとして、やめた。

商店街の真ん中で、押し倒されるように抱きすくめられながら、私はひどく幸せなことに気がついた。大きな安心があった。私は力一杯、あの人を抱きしめ返した。
遠ざかっていく馬の足音が、あの人の鼓動と重なっていた。

あとで、これは商店街で一年に一度ある謎の行事と聞いた。
そうか。毎年、ここを馬が走り抜ける度に、私は今の気持ちを思い出すだろう。それだけでいい。それだけで、何があってもやっていける。

「ねえ、かつ丼、これからも一緒に作ってこうよ」

「ああ、そうだな」

私たちは顔を見合わせて笑った。
この春は私の中を奔馬のように駆け抜けていった。




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