中年よ、危機を超えてゆけ
ミドルエイジ・クライシス
「37歳を超えるとね、一回、アイデンティティが揺さぶられるのよ。それは絶対来るから、覚悟しておいたほうがいい。」
趣味のバンド活動を一緒にやっている、年上の凄腕ドラマーさんがいつかそう言っていた。そして、自分は今年37歳を迎えた。来るのか?クライシス、来るのか?そもそもクライシスってなんだ?
調べてみると、なんとWikipediaに「中年の危機」の項目があるではないか。
加齢による身体的変化
中年期には体力・運動能力の低下に加え、生活習慣病の罹患、性機能の低下や閉経、更年期障害といった身体的変化を体験するが現代医学の進歩により、回避(老化防止)や防止などこれらの改善方法がいくつか提示されている。
家族ライフサイクルの変化
中年期の女性の心理的問題には子離れに伴うものが多い。夫婦共通の目標を見失うことで、父親・母親という役割によって成り立っていた夫婦関係を再確認する欲求が高まる。また、老年期の親の介護や、死別し残された親を引き取るなど、家族構成の再編成を迫られて危機が表面化する場合もある。
職場での変化
新技術の導入、年功序列制の揺らぎといった職場環境の急激な変化や、出世や能力の限界が見える挫折体験など。
Wikipedia「中年の危機」の項目より
そうか、私は今、こうした危機の真っ最中にいるのか。思い当たる節がないわけではない。
「せずにはおられない」ことがなくなる
学生の時分、ゲームが好きだった。数時間ぶっ通しでやることもザラだった。学生の時分というか、社会人になってからもしばらくはそうだった。DSのドラクエ9が出た頃は、休日にはすれちがい通信を楽しむために秋葉原へ通う、というようなこともしていた。
いつからだろうか、ゲームを長時間遊ぶことができなくなってきた。はじめに、「ゲームに数時間も使うのはもったいないな」という気持ちが芽生えた。これは人生においてゲームよりも優先度の高いものが現れたからだ。
(優先度の変化については、下の記事の「私生活に踏み込む」にて言及している)
だんだん、長時間できないばかりか楽しみにして買ったゲームを最後までクリアできなくなってきた。楽しさや感動より、面倒くささが上回ってしまったのだ。
この現象が現れた当時は、自分の感受性が薄まってしまったような感覚があり、ひどくショックを受けていた。子供の頃から大好きだった「ゼルダ」シリーズの当時の最新作、「スカイウォードソード」を序盤で投げてしまったときは、本当に自分はどうにかしてしまったのではないか、とショックだった。これは、20代後半の出来事。
37になった今はどうだろう。子供が生まれ、育ち、「ゲームをやりたい」と言い出す年になったこともあり、我が家にはSwitchがある。これまた、大好きだった「マリオカート」「スマブラ」が出ている。
久しぶりに我が家にやってくるゲーム機。ちょっとワクワクしていた。いざ届き、子供たちと対戦し、それはとても楽しかった。
しかし、それだけなのだ。子供たちが寝静まったあと寝食を忘れてやりこむ、とはならなかった。やはり「ゲームをせずにはおられない」という情熱は、どこかへと消えてしまったのだ。
音楽に対してもそうだ。一昨年くらいから、CD屋に行く機会がめっきり減った。もちろんストリーミングサービスを利用し始めた、というのは大きいのだが、新しい音楽を聴こうという気概がずいぶんと減退してしまった。
ヘビーメタルに関しては相変わらず貪欲に聴いているが、それでも新譜から新しい刺激を開拓するより思い入れのある楽曲をプレイリスト化して聴く、という時間のほうが圧倒的に多い。
ファッションに関してもそうだ。Calvin Klein, Paul Smith, junhashimo, DENHAM, MACKINTOSH...かつてはこういったブランドが好きで、Paul Smithなどは丸の内の旗艦店に足繁く通うほどに入れあげていた。
Paul Smith氏が来日した際の、Paul Smith氏と若かりし日の私だ。派手だ。
今でもこういったブランドの服は好きだ。好きだが、シーズンごとに服を買い替えるという気持ちはそんなに起きないし、衣服に求めるものが機能性にシフトしてきているので「ユニクロ最高!」な日々だ。
私は、枯れてしまったのだろうか。自分自身が大切にしてきたことにコミットできなくなっている自分という存在は、自己肯定感を著しく損ねる。これはまさに「中年の危機」だ。
しかし、私は思うのだ。枯れたからこそ、「せずにはおられない」衝動がないからこそ、良いのだと。
選択的に情熱を注ぐ
「せずにはおられない」、沸き上がる衝動が消失することを「枯れる」というなら、私は枯れているのだろう。では日々を漫然と過ごしているかというと、そうではない。
まず、仕事は楽しい。よく「会社で一番楽しそうにしてますね」とまで言われる。たぶんあってる。
私生活も楽しい。子供が3人いて大変だし朝から日輪刀で切りかかってこられるが、楽しい。
読書は意識的に力を入れている。今年は12/26時点で、年間108冊読了している。
アウトプットにも積極的に取り組んでいる。「ひとりアドベントカレンダー」なんて酔狂もやった。
これらは、「せずにはおられない」衝動からは行っていない。意識的に「これをやろう」「頑張ろう」と情熱リソースを振り分けている。ある種の自己暗示なのかもしれない、先に「今月は毎日noteを書くぞ」とか「年間100冊以上は読むぞ」とか決めておき、そのとおり行動している。なので周囲からは「せずにはおられない」情熱をもって取り組んでいるように見えるかもしれないが、選択的に行っている。
この、自分のリソースをコントロールして計画的に情熱を注いでいくというのは、大人だからこそ、中年だからこそできることなのだ。だから、沸き上がるものがないことを今では負い目には感じていない。中年ならではの脂の乗った生き方を実践できているのだ。
選択が情熱を生む
そして、自ら選び取った行動から情熱が湧きあがってくることもある。数年前には月に1-2冊読めればいいほうだった読書が、ここ2-3年は年間100冊以上が当たり前になってきている。これは「空いた時間にはつい本を読んでしまう」ことが習慣化したからだ。そう、さきほど「せずにはおられない」を若干否定しておいてなんだが、私にとって読書は「せずにはおられない」ものになりつつあるのだ。
このようにして、選択が情熱を呼び覚ますことも、またあるのだ。
人は誰も中年になる
「37歳を超えるとね、一回、アイデンティティが揺さぶられるのよ。それは絶対来るから、覚悟しておいたほうがいい。」
ドラマー氏の言葉は、果たしてその通りだった。そして、そのように予告されていたからこそ私は内なる変化を冷静に受け止め、肯定的意図に転化し、クライシスに陥ることを回避できた。
そう、それこそがこの記事を書いた発端なのだ。今後、ミドルエイジクライシスを迎える世代の方々が、「それ」は来るものだと理解し、それぞれのやり方で対処し、クライシスを乗り越える…そんな、未来の中年たちを救いたくて、本記事をしたためたのだ。未来の中年諸氏にとっていくばくかの希望となれば、幸いである。
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