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無意味の「意味性」「無意味性」

例1
「街角からラグビーの音がする、しかも想像を超えた味だ。」

例2
「さかあわらさし、家が子守だとがうぇ。べがだごとうぇおこ。」

 どちらの例文も伝える意図のない、無意味な文章です。デタラメな文章ですが、それぞれに違いがあります。例1は言葉単位では意味があり、文節単位では繋がっていそうです。対して例2は全くデタラメな文章です。

 例1に意味はありませんが、私の深層的な意図が反映されています。「街角」という書き出しで方向性の幅を先に担保し、「ラグビー」のグビーの心地よさで言葉を選び、その心地よさに引っ張られ「音」という言葉が出た。次の文節は、前の文節から大きく外れるように一度前の文節を踏襲したと錯覚させる「想像を超えた」と続け、最後に無理やり別の意味となる「味」に急展開させた。
 無意味な文章に、結果として分析すればわかる、私の無自覚な意図が反映されている。これを「無意味の意味性」と呼ぶことにします。

 対して例2は、手が動くままにキーボードを叩き、適当に変換し、句読点を入れた。本当にデタラメな文章です。これを「無意味の無意味性が強い」と表現します。

 ただ、適当な変換と句読点から、「家が子守だとがうぇ。」子守が面倒くさそうな気持ちの文節が立ち現れました。最後に「おこ」と怒っている気もします。私からすると全く無意図ですが、受けた人はここに意味を探ってしまうと思います。また、キーボードを叩く動作、句読点を適当に入れる行為は、テクロノロジーやそれを使う教育を受けた私、日本語の構造といった文化そのものが反映されています。
 言葉は発信者と受信者が意図を送り、受けて成立します。受信者の誤解も言葉の構造の一部です。また、文化は人の紡いだ強い意味性です。
つまり、言葉での無意味は人である以上困難で、おそらく不可能と思われます。この場合、例2は「無意味の意味性が弱い」と表現します。

 次に、例3をみてみましょう。
「昨年から続く、PALOもしい加賀坂から、集ましいカボが届いた。」
 これは、言葉そのものは、意味があり文節で成立していません。また、造語もあります。無意味の意味性としては、例1と例2の間のような感じです。つまり、無意味の意味性にはグラデーションがあります。

人が達成できない、無意味のイデアのようなものを「完全無意味」と呼びます。そこからはじまり、「朝ごはんを食べました。」といった発信者と受信者の齟齬も生まれにくい意味性のある言葉まで、無意味にはグラデーションがある、これは個人的には大発見でした。ぜひ驚いてください。

突然ですが、「無意味の意味性と無意味性」「完全無意味」を定義して第一回を終わります。今回は言葉による無意味を扱いましたが、行動の無意味性もまた無意味には重要なテーマです。また、受信者と発信者の別人格から発生してしまう無意味、意味もまた難しいテーマだと思います。ここは「無意味のおもしろさ」「笑い」につながる重要な考察ポイントと思います。

「訳わからない」ものが、どう訳わからないのか、どのくらい訳わからないのか、そこへの考察はとても重要と考えます。飽きずに長続きして、この考察を深め体系化していく事を自分に期待しています。

余談ですが、ブレイクビーツを刻んで並べ替える行為と、言葉の配列はすごく似た感覚があるように思います。余談でした。


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