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そういう“設定”の茶番劇

普段はあまりYouTubeを見ない私でも、TikTokはよく見ていたりします。ですので、YouTuberの人達に関しては無知に等しい私でも、彼らのTikTokの投稿や第三者が作るYouTubeの切り抜き動画の投稿を見ることで、YouTuberの人達に関する表面的な知識だけは持っていたりします。

ただ、やっぱり私はYouTuberが苦手だなと思わせられる事も多くあり、その理由として挙げられるのは、「番組、映像作品として成立させる為の設定としての配役、演出、及びそういう関係性のビジネスとしてのチーム」になんとなく拒絶反応を示してしまうからです。YouTube独特の『作り込まれていない感じ』が、何か下手なコントを見させられているような不快感に近いものを感じてしまいます。

噛み砕いて言うと、下手なヤラセというか茶番劇が苦手です。例えば、恋人でもなんでもない男女による恋人設定のカップルチャンネル、極貧アパートに住んでいると見せかけてそれは撮影用の部屋で本当は高級マンションに住んでいるYouTuber、エロい女家庭教師とその生徒という設定のただのビジネスパートナーの男女、などがそうです。

最初から『ヤラセ自体を笑う目的』の作品なら笑えるのですが、そうではない『明かす訳でもない見え透いたヤラセ』が嫌いだったりします。

「エンタメやねんからそれも含めて楽しまんとアカンで…全く頭が堅いんやから君は。」と言われそうですが、「いやいや何言うとんねんなこんな質の悪いモンがエンタメな訳あるかいやボケナス。」と言い返したいです。

演劇やコントは好きですし、テレビドラマや映画、リアルドキュメンタリーやフェイクドキュメンタリーも好きです。YouTubeでも普通のバラエティーは全然好きなんですが、変な設定が入ると途端に嫌いになってしまいます。

そんな私ですので、コンカフェ業界にも蔓延るそういった『質の悪い設定』にも嫌悪感を感じてしまう訳です。ただでさえどの店も基本何かしらのコンセプトを掲げて営業しているという業界ですし、そういった『形だけで中身の無い要素』は、元より比較的多い業界なのかも知れません。

という訳で今回はそんな『設定』にまつわる本音と建前、嘘と実態に関する徒然です。


設定①謎のプロデューサー

コンカフェが新たにオープンする際によく見かける『○○ちゃんプロデュース』という宣伝文句。これは人気や実績のある名前の知られたコンカフェキャスト等を起用する事で、ゼロから始まる無名の店舗にとって、宣伝や集客のスタートダッシュとなるような起爆剤に出来る、という効果があります。

・プロデューサーの知名度、フォロワー【対象】
・プロデューサーの影響力、SNS発信力【効果】
・プロデューサーの人気度、カリスマ性【求人】

ひとりの力で沢山の人間に宣伝が出来る上に求人も出来る。これが目的で、店は『プロデュース』をする人間として任意の女の子に対して依頼をする訳です。

実際に事細かくプロデュース業務に関わるケースもあれば、ネームバリューだけを目的とした雇われ店長のポジションに収まるケースもあり、その実態は様々です。中には純粋に自力で出店したオーナーキャストが、プロデューサーを兼ねた経営者として運営していくというケースもありますが、これは極めて稀なケースです。

ですので、一概にプロデュースをすると言っても、それが「業務全てに携わり、決裁権を持ち判断を委ねられた上で、自身のプロデュース能力を遺憾なく発揮する」という様なものであるとは必ずしも言えない訳です。

プロデューサー職を設けるタイプの店の多くは、金主となるオーナーが裏に居り、次いで表面上の経営者として雇われオーナーが鎮座し、表向きには知名度の高い女の子をプロデューサー(店長職を兼ねるケースも)に据える。といった構図です。もちろん金主の居ない自己資本の経営者も中には居ます。

大まかなパターンは以下の通り

【金主パターン】
金主+雇われオーナー+プロデューサー+キャスト

【金主無し自己資本パターン】
経営者+プロデューサー+キャスト

【金主無し自己資本自己プロデュースパターン】
経営者兼プロデューサー+キャスト

【キャスト自己資本自己プロデュース出店パターン】
経営者兼プロデューサー兼キャスト+キャスト

そのプロデューサーが“本物”であるかどうかの真贋は、店で観察していれば自ずと見えてくるものなので、それがもし仮にそういった『建前上に施されたメッキ』だった場合には、自然とすぐに剥がれてしまう事が多いようです。


設定②見える駒と見えない経営者

「女性オーナーや女性店長、女性プロデューサーを置いた方が良いだろう。」という安易な発想で、そういう体に見せかけようとする金主も中には居るようで、その結果たとえ表向きにはそう見える店であっても、実態は必ずしもそうではないという事も大いにあり得ますので、求人に応募する際には注意が必要です。あくまで設定上の形だけの女性運営も沢山あり、表面だけを見て「ここは女性運営だから安心して働けそう。」と判断するのはとても英断とは言えません。

表向きには『女性経営者の店』と謳いながら、蓋を開けてみれば男が自分の彼女に店を持たせるといった形で出店されたコンカフェだった…という店も実在しますし、例えば若いインフルエンサーの男性を設定上のオーナーとして据えた店の思惑は、キャストを効率よく集められるインフルエンサーの人脈が目的であるという金主の策略であったりしますし、例えば若くしてコンカフェを出店する女の子の中には、パトロンの力を借りる子も多かったりします。純粋に親族の援助で出店する子も居るので、皆が皆そういう訳ではありませんが。

いずれのケースに於いても、自己紹介では余計な事は語られる事はなく、ただ「私がオーナーです。」と名乗るだけだと思います。わざわざ内情を吐露する必要はありませんので。ただ、そのせいで分かり難くなった見えない構造が、返って様々な憶測呼んでしまったり、穿った見方をされる原因になったりもしてしまいます。

コンカフェはその性質上、裏方の男性スタッフが表立って姿を見せない店が多いです。大きな規模の店でない限り、キャストや女性スタッフだけで業務は事足りますし、業務的な問題だけではなく、客の視界に男性スタッフが入らない用に配慮している店もあります。逆に積極的に男性スタッフが表立って現れる店もありますし、それをよく思わない層の客が一定数居るのもまた事実です。

中には運営を責任者に一任し、店やキャストの前にも一切現れないオーナーも居ますし、働いているキャストですら誰が経営者なのか分からないという様なケースもよくあります。

また、店長とは名ばかりのただのアルバイト店員が店舗責任者を任されているといったケースも散見されます。

こういったように、表面をなぞっただけではその実態は見えにくい、というのが昨今のコンカフェであり、“業界の闇”と表現されるものの多くは、この見えない部分が起因するものだという印象が強いです。


設定③キラキラコンカフェ嬢という設定

いつから使われるようになったのかよく分からないこのお馴染みのワードですが、この仕掛けられたムーブメントにより得をした人達が沢山居ます。イベント等で開けられた高額なシャンパンの空き瓶と共に撮るお馴染みの構図の写真達は、そもそも華やかなキャバ嬢達の文化を模したものです。

コンカフェ嬢という呼称も、キャバ嬢や風俗嬢を模した『稼げる夜職』というニュアンスを含んだ呼称であり、職業差別をするつもりは決してありませんが、オーソドックスなメイドカフェで昼間に働く女の子にとっては、蔑称と感じる子も中には居るかも知れません。まだコンカフェキャストの方が聞こえが良いです。

しかしながら、一部の事業者にとっては「風営法の管理下に入らずとも、キャバクラのような売上を作る事が出来る。」という利点となり、『キラキラコンカフェ嬢』という存在はその追い風となったのです。以前ならその役割はガールズバーだったのですが、今のトレンド的にそれがコンカフェに成り代わってしまったという格好です。

つまり恩恵を得たのは、外から参入した一部の事業者と、そこで働くコンカフェキャスト達です。この大きな流れはとどまるところを知らず、今となってはその後発参入の事業者達のスタイルがスタンダードになりつつあります。

設定④走らされる馬は幸せなのか不幸なのか

前項と同じく、夜職の文化を模倣したものとして『競わせる必要のない事を競わせる』という手法があります。違う店とならともかく、同じ店のキャスト同士で何かを競わせる目的はただ一つ、売上金額を上げる為です。キャストに対しては競争心を煽り、客に対しては同情心を乞う。結果的に売上は上がっても、キャスト間には遺恨が残り、客は負担を背負うだけで、経営者以外は誰も得をしない後味の悪いものとなる事が多いです。店によっては客側にも勝利特典を設けるなどで上手くイベントとして昇華出来ている店もありますが。

自己顕示欲や承認欲求の強さにつけ込まれ、さながら目の前にぶら下げられた人参を追う馬の如く、背中に乗せた経営者に鞭を打たれながら一心不乱に走り続ける姿は、人によっては美しくも見えるかも知れませんが、私には哀れに見えて仕方がありません。これはキャバクラや性風俗店では昔からよく使われる手法です。果たしてコンカフェに必要でしょうか?


設定⑤現実とファンタジー

とは言え、コンセプトカフェそのものは設定があってのものなので、こちらにもある程度の『楽しむ心』が必要なスキルとして求められます。たとえそのコンカフェのコンセプトが「内装の一部と制服だけのコンセプト」で、中身はただのガールズバーであったとしても。

キャストもまた、目の前に居るAちゃんは本来の姿であるBちゃんが店のコンセプトに則った上で創った設定上の女の子であり、プライベートのBちゃんとは乖離した偶像的な存在です。もしBちゃんに彼氏が居たとしても、Aちゃんには居ませんという理論が罷り通るのはそういうカラクリという訳です。

ですので、軽率にAちゃんではなくBちゃんの世界に踏み込もうとする客は漏れなく破滅を迎える事となります。これはいわゆる繋がり厨やガチ恋勢を指します。設定を乗り越える行為はこの世界では無粋と言えるでしょう。

そういったあらゆる“設定”を理解した上で割り切って楽しめる人が、コンカフェに於いては無害で好かれる客になれたりします。茶番劇を理解して自らも演者になれる人か、或いは茶番劇を受け入れられずにただ批判するだけの観客で終わる人かの違いです。

もちろん批判は悪い事ではありません。なぜなら全肯定と思考停止は紙一重だと思うからです。本当におかしいと思う事には声を上げるべきですし、それが間違った主張であるならば誰かに諭されるべきでもあります。とにかく、茶番劇の演者と観客との認識のバランスがとれてさえいれば問題ない訳です。


あとがき

いかがだったでしょうか?見えないものをいくら見ようとしてもなかなか上手くいかないものです。たとえ藤原基央が望遠鏡を覗き込んだとしても何も見えません。

私達が普段見ている華やかなコンカフェ業界は、本音と建前など虚実入り乱れた様々な設定が折り重なった混沌の中に見える、光に照らされたほんの小さな一部分なだけなのかも知れませんね。

知らんけど。

それでは今回はこの辺で。

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