間隔、あるいはparade

学生のころ書いた短篇の一部 供養です

 液体はそうしているうちにも、机上に広がっていく。「失敗だ」という言葉が聞こえた。頭の奥、あるいは触れることのできない過去や、体が憶えているあらゆる遠い場所から。
 これは失敗だ。失敗したのだ。
 皮膚全体が浮き上がってヒリヒリしている。
「失敗してごめんなさい」
 少年が口篭りながらそう言って、小さくうずくまって震えている。それは、誰であったか。のぞき込んで見えるその顔は、自分だったのではないか。
「酔ったのか? 珍しいな。まあ、拭きな」
 笠谷が系井の頬に下からおやつカルパスを突き刺す。同時に、手近なオシボリを彼へ渡した。
「俺は」笠谷は、その後の言葉を聞き取ることができなかった。系井はいやに澄んだ目を瞬くと、笠谷のほうへ顔を向ける。「ごめん、ちょっと」
 オシボリは、彼が言い終わらぬうちに、畳へと落下した。それが手のひらからこぼれ落ちたのか、それとも、手のひらをすり抜けたのか、笠谷にはわからなかった。
「いや、ぜんぜん、――系井?」
「ちょっと死んでくる」



「あ?」
 笠谷は、間の抜けた声を漏らした。当の系井は返事もなく、ハイボールがこぼれた卓を通り過ぎ、ふらりふらりと座敷に座り込む面々の間を縫って歩いていく。
 笠谷は一呼吸遅れて後を追う。 緩慢な歩みであるはずなのに、系井は既に出口の襖に手をかけている。小走りになりかけた時、屍と化した部員を小部屋に収容してきた矢野浦と鉢合わせた。
「どうした」
「なんか、系井、死んでくる、とか、言っ」
「…………あ?」
 矢野浦が振り返る。ぱたん、と襖の閉じる音がした。それを合図に、二者は同時に走り出した。
 部屋の外には、既に系井の姿はなかった。座敷から出るや否や、走り出したらしい。二者は後を追って走りながら、怒鳴るように言葉を交わす。
「あの野郎〜〜〜〜〜!」
「寝てくるとか、吐いてくるとか、そういうことではなくて!」
「わかんねえよ! わかんねえけど」
「酔ってわけのわからないことを言ったのかも――」
「いや」笠谷は、それに対してははっきりと首を振る。「…………いや、」
 矢野浦は舌打ちをして、長い廊下を駆け抜け、右折する。建て付けの悪い玄関の引き戸は開いたままである。闇の中にぼんやりと見慣れた猫背が見える。
 裸足で外へ飛び出た二者は系井と一声ずつ叫びかけた。そしてまさに駆け寄ろうとした時、眩しさに足が止まる。目が眩んで、系井の顔が見えなかった。
 系井を乗せた白いレンタカーは迷わず道へ飛び出し、エンジン音だけを残して消えた。
 玄関口には、異変に気づいた面々が集まってきていた。「あれ」肩で息をしている二人の後ろで誰かが呟く。
「能宮は?」



 闇の中には篝火も見えない。分厚い雲は全ての光源をその内に隠し、重く垂れ下がっていた。
 何かに向かって走っていることは確実だが、そこに指標はない。かの女は暗闇に一つ燃える標しに向かって走っていた。しかしいま、目指すのは点ではない。道がそこからぱったりと途切れているような欠落である。深い淵の底には何もないのだろう、と彼は思う。恐らくは、底さえも。
 乱暴にハンドルを切り、速度を上げる。その疾走の中で、空の体の根幹が揺さぶられる。浮遊感が、更にアクセルを踏み込ませる。
 もうすぐである。

 系井の頭の中にカンカンと抑揚のない音が鳴り響いた。R値256の赤ランプが点滅している。視線が無意識にそれを追い、すこしずつ、焦点がぼやけていく。頭の芯が痺れきって、遮断機の黄と黒の縞模様だけがはっきりと像を結んだ。体にもう神経などないのに、右手がそれに吸い寄せられるように動いた。
 系井﹅﹅が遮断機に手をかけるのを後ろから見ていた。警報機の音を残したまま、まだ電車は来ない。その間にふと視線を移す。踏み切りの向こう側に佇む人影を見た。
 ような気がした。



 一筋の光線が暗闇を切り裂いた。

 我に返った系井の身体から、思いがけず力が抜ける。車全体に振動が走り、ボンネットの上に何か重いものが落ちたことがわかった。
 次の瞬間、フロントガラスが真白になって粉々に砕け散った。音がその後から降り注いだ。懐中電灯が宙を舞っているのが見えた。その光に反射して煌めく破片の中から腕が伸びてきて、雑に系井の胸倉を掴む。
 系井が咄嗟に踏んだのがアクセルでなくブレーキであったことが、偶然なのか、はたまた他の何かであったのかはわからない。しかし兎にも角にも、白馬は深い淵の手前で止まり、崖下に砂利が落ちていく音が数秒のあいだ続いていた。

「捕まえた」

(なにを)


「ちがう、ちがう、系井それぼく﹅﹅じゃない。だから、ぼく﹅﹅は系井じゃない、ぼく﹅﹅は」


「やってたんだよなあ、俺。新体操」
「るせえな」
「さて」能宮は右手で系井の襟元を掴んだまま、切り出す。左手には金属バットを持っているため、すこしやり辛そうに、ずれた眼鏡を押し上げた。
「探しものは見つかったか」
「……」
 能宮は系井を実質締めあげていた手を離し、ボンネットの上に腰を落ち着けると再度口を開く。
「……幼いワガママを切り捨てて大人になったと思っていた。衝動を捨てて、混乱した世界を整理して、ここまで来たと」
 崖下に落ちる砂利の音は収まっていた。辺りには風もない。ただ、時おりガラスの破片がちりちりとボンネットを転がっていく。
「けれど、死にきれなかった非合理的で、素朴な直感と、あるとき対面してしまう。捨てたつもりのあれやこれやのの幽霊はずっと俺たちのあとさきを徘徊するし、――そうだな。捨てられないものは、ずっとおくそこに仕舞っておく。見えないように、隠して」
 能宮は人差し指と中指を伸ばすと、それを交互に動かして系井の腕上を移動させていく。
「しかしながら、埋めたら出てくるんだよ。土の下に、地下にあったはずのものはいつだって顔を出す契機をうかがっている」とことこ歩く能宮の右手は、系井の青いリストバンドに差し掛かった。
「仕舞い込むものが増えてどうしようもなくなったときに、その重みに引っ張られて」
能宮の右手はそこでぱたんと倒れる。
「ほら」
「なにがほらだ 馬鹿が」
  リストバンドの下に痛みなど感じるはずはなかった。それほど、ずいぶん昔のことであるはずだった。それなのに、捨てたはずの過去がどうしても重い。
「……見つからなかった」
 系井の掠れた声がシートに吸いこまれて、消える。
「追いつけなかったよ。もう、後姿も見えなくなっちまった。それがいいのか、悪いのかもわからねえ。だけど、あいつが失踪しちまったのはほんとうだ。
 俺であるのは系井﹅﹅なんかじゃない――でも、それが何なのか、わかんねーんだ」
わかんねー﹅﹅﹅﹅﹅さ。だから追いかける」能宮が系井の言葉を引き継いだ。「なにもかもはいつだってこぼれ落ちるばっかりだ。すべてが語り切られることなんてない。あるのは無限の後退だ。そのことに何億年も昔から、苦しんできたんだ」

「それでも、言葉しかない」
「モゴ」

 能宮が突発的にバットを放り出して、両手で系井の顔をぐちゃぐちゃに挟んだ。落とされた金属バットがカラコロと音を立てる。その動きで、黒縁の眼鏡がまたずり落ちる。大きな瞳がまっすぐに系井をとらえた。
 それを見て、系井はげえと舌を出して顔をしかめる。
 宵闇は、しばらくそのまま口をつぐんでいた。
 能宮は、一度長く息を吐く。準備をすませると、眼鏡を直した。
「――でもそのまえに、『お姉さんといっしょR』の続編を観なきゃな」
「続編出たの? マジか」
 系井の反応速度に、能宮が耐えきれず吹き出して、朝になった。フロントガラスは既に破られている。燃える赤の陽がまっすぐに射し込んできた。車内に散らばった破片が、せわしなく光を反射した。



 紫煙が朝方の空に吸い込まれていく。能宮は地べたに座り込んでいた。運転席から降りた系井は扉に背をあずけて煙草セブンスターをふかし続ける。
「この距離はどれだけ隔たっている? 『俺』と『系井』は等号で結ばれるはずだった。でも、『系井』ってなんだ? 『系井』は『系井』でしかなく『俺』じゃなかった。同じように煙草は吸うけど」
「自分は遠くにある、そう言った人がいた。自分はいつだって、隔てられてあるのだろう」
「『系井』はここにいないのかな」
「さあね」能宮は事も無げに言った後、「……私に追いつき、重なりあってあることではなくて、相反する『私』を追いかけていくこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅なのかもしれない」
「なにが?」
「いきること」
 座っているせいで、能宮の表情は見えなかった。系井はその後頭部を見ながら舌打ちをする。
「なにがいきることだバカクソ殺すほんと」
 能宮は不自然な方向に顔を背けたまま硬直していたが、そのうち思い出したようにくしゃみをした。傷だらけの携帯を取り出すと、電話をかける。
「モシモシ、うん、俺。あ、そう、系井、見つけた」



 朝方の民宿は静まりかえって、窓の開け放たれた個室に男が二人だけ、ぽつんと座っていた。
「……なあ、能宮」笠谷は返されたバットを撫ぜてから、呑気に懐中電灯を弄っている能宮を見た。「何が見えてんだ?」
「……」
「俺は、もしかして――」
 能宮は目を伏せたまま、笠谷、とひと声、笑ったようだった。
「俺はただの底辺学生だよ」
 言葉をさがしているのか、わざととどめたのかは分からないが、能宮は一旦口をつぐむ。部屋の中はしばらくしんとする。静けさの中に、階段を上がってくる音が遠く聞こえる。
 笠谷は、言い返しかけた言葉を保留して、能宮をまっすぐに見た。
「ありがとう」
「……お前はいい奴だよ。それだけは本当に思ってるんだ」
 小部屋の襖は漫画か何かのように勢い良く開けられた。
「マイゴになってた」その勢いとは裏腹に、系井は宿にたどり着いてからすぐ風呂場に放り込まれたため、ピンクの水玉柄のフェイスタオルを被って萎れていた。
 不意に俯くと、落ち着かずにリストバンドをくるくるといじる。毛先から水滴が一つ二つと落ちた。「……ごめ」
 笠谷はそれを制する。「そのまえに」
 系井は細い目を一瞬揺らす。が、しかし眼前に笠谷がどこから出してきたのか、親の顔より見た緑の酒瓶をかかげた。
「やることがあるだろ」
「やったぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜水かな? のど乾いてたんだよなぁ〜〜〜〜〜〜〜」
「あーもういい もういい殺すほんと」



「さてイレギュラーに早起きしてしまったので、皆でたのしく映像作品鑑賞とシャレこもうぜ」
「なにがあるの?」
「『お姉さんといっしょR☆よい子のうんどう会編(※R18)』」
「俺たちの夜は!」
「これからだ!」
「君たちだけ、違う時間軸を生きているのかな? 陽は昇りにけり!」
 鬼の形相をした矢野浦が、ふたたび部屋の引き戸を勢いよく開け放つ。山のむこうで、コケコッコウ、と鶏が一声鳴いた。



「PARADE」の並行世界パラレルワールドがこちらあるいはこちらのパラレルワールドが「PARADE」だったりします。それ以上のおもしろい含意はありませんが……

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