それで、合ってる?

過ぎ去った 夏だけが
私たちのあいだに横たわる
夏について
いつも語るのはここにない夏のことだ
いつかなくしてしまった
得たかも分からぬ思い出
望んでいただけで 手に入れることができなかったものを
失ったと言って安心している(それで、合ってる?)
ほんとうは?

わたしは、わたしたちは、あの夏にいたのではないか?
あの日落としたボールに触れえないとすれば、もうたしかめるすべはない。
痕跡とは失ってしまったというこのこころ
であれば。
いつか、わたしは夏を持っていたのではないか?(所有していたじゃないか)
そんな治療など。

「先刻君は蟹を所有していたじゃないか」
 私が兄さんに突然こう云いかけますと、兄さんは珍らしくあははと声を立てて愉快そうに笑いました。修善寺以後、私が時々所有という言葉を、妙な意味に使って見せるので、単にそれを滑稽と解釈している兄さんにはおかしく響くのでしょう。おかしがられるのは、怒られるよりもよっぽどましですが、事実私の方ではもっと真面目なのでした。

夏目漱石『行人』 四十八

落としたものはただ、過去に転がっているだけだ

ぼくはあの日の家には帰れない
ぼくが帰ることができるとすれば
いまここにある家だけなのだ

衣更着りん「残響」

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