言語の不確かさについての備忘録
前回の記事では、國分功一郎と千葉雅也の対談集である『言語が消滅する前に』を取り上げた。
ここでは「言語は解釈を必要とする七面倒臭い存在であり、直接的満足を延期させるものであるが故に、消滅の危機に瀕している」という話がなされていた。
また「思考するとは言語化することである」、「僕たちはそれぞれの仕方で、言語の消滅に抗っていく必要がある」と主張した。
しかし一方で、言語に偏重しすぎることによる弊害があるのも、また事実だ。
冒頭で引用したように「言語の解釈は無限に積み上げることができる」。
これはどういうことか。再び『弱いつながり』より、具体例を参照してみる。
東浩紀は同書において、言葉にはその解釈によって「どんどんズレていく能力」があると主張している。例えば、ある問題にぶちあたった時、「どのような対応を取るのが正しいのか」と議論をしていたとする。これは初めのうちは具体的なものだが、徐々に抽象化していく。
即ち、言語の解釈を重ねることによって、「そもそも正しいとは何か」「自分たちが『正しい』を決められるのか」といったメタ的な方向に議論は転がっていく可能性があるのだ。
つまり言語は、その解釈を一意に定めることは出来ず、いくらでも解釈のしようがある。
”真実はひとつだが、言葉ではそこに到達できない”ということだ。
続いて、人間がどのようにして言葉を認識しているのか、ひいては「赤子はどのようにして言語を習得しているのか」という話をしたい。
ゆる言語学ラジオの、下記動画を参照する。
この動画では、先行研究の書籍を参照しつつ、赤子が言葉を習得するプロセスについて話している。めっちゃ面白くて、めっちゃ興奮したのでぜひ。
先に結論を言うと、「赤子が言葉を覚えられるのは複数のバイアスのおかげ」らしい。バイアスというのは、雑に説明すると、人間の先入観や思い込みのことで、例えば「肉を食べた後にお腹を壊した」という現象があったら「お腹を壊したのは肉を食べたからだ」と思い込んでしまうような脳の傾向のことだ。
このバイアスは、単に「人間はこんな勘違いをして愚かだよね」という話ではなく「こんな勘違いをすることが生存の役に立つよね」というロジックで成り立っていることが多い。先ほどの例で言うと、肉を食べないようにすればお腹を壊す確率は少なからず下がるだろう。
さて、それを前提として、赤子はどのように言葉を習得するのか。
人間の赤子は「バナナ」を指して「バナナ」という音の並びを教え込んだ結果、いちごやリンゴなど他の複数のモノを並べて「バナナ」と言っても、的確に「バナナ」を言い当てることができるのだという。
当たり前のようだが、これはよくよく考えてみるとおかしなことだ。
「モノ(バナナ)を指して『バナナ』という」のは記号で表せば「AならばBである」に相当し、「『バナナ』という音からモノを特定する」のは、逆に「BならばAである」に相当する。
少し考えてみればわかるが、これは明らかに成り立っていない。
「AならばB」と「BならばA」は決してイコールではない。十分条件と必要条件の話だ。だから本来、「『バナナ』という音はこのモノを表す」が分かっても「このモノは『バナナ』という音である」は分からないはずだ。
けれどこれを成り立たせているのが、人間のバイアスである、というのだ。
このように、言語の習得のプロセスはそもそもバイアスに満ちたものであり、バイアスによって成り立っている。言語が如何に曖昧なものであるのかが、なんとなく見えてきたのではないだろうか。
「バナナ」という音は「果物」という意味かもしれないし「甘い」かもしれないし「黄色い」かもしれない。なのにこれを「バナナ」という一般名詞と結び付けられるのは、バイアスの成せる技だ。
ということで、上記の動画が面白すぎたので、メモとして残してみた。
備忘録なのでオチはないよ。ていうか動画を見ろ。
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