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価値観のアップデートまとめ

令和になり、ブラックライブズマターやジェンダーイコーリティーなど、マイノリティーの権利について話題になることが増えた。気候変動が問題になり、企業はSDGsを真剣に利益を出すためのビジネスとして捉え始めた。広告の仕事についても、コンプライアンスの枠を超えた価値観のアップデートが求められており、それはプライベートの価値観とも地続きである。

だから、ここらで、自分自身の価値観についてもアップデートしておくべきだし、一度棚卸ししておいた方がいいのではないか?と考えた。未だに旧時代の価値観のまま話してしまい、後で後悔することがあるし、そうと気づかず他者を傷つける言動をとっている可能性もある。

逆に、関係性の中でのいじりやジョークについて、必要以上にセンシティブになっている可能性もある。表現について過剰に忖度してしまっている可能性もある。経済的文化的分断について無知でいたためにお互いの常識を押し付け合っている可能性もある。

できることは、常に自己批判的に自らを見直し、関係性を見直し、社会の動きをチェックし、直感と感性を耐えずアップデートすること。

spotifyで愛聴しているpodcast「POPLIFE:the podcast」でも語られているように、分断をそのままにせず、フラットに意見をぶつけ合うことこそが、豊かな関係性とコミュニティを拡げることにつながるはずだと信じて。

1.見た目への言及
近年は「ルッキズム」への批判精神として、doveが「real beauty」というキャンペーンを行なっていたり、痩せている人や太っている人をモデルに起用する下着メーカーもある。美しさとはその人固有のものであり、順位をつけたり比較して点数をつけたりするものではない、という考え方だ。ミスコン的な取り組みは年々縮小傾向にある。
もちろん、各個人が美人だ、イケメンだ、と心の中で思い、そのことを口に出すことは、自然な感情の流れであり、禁じるものでもない。
しかし、例えば2人の女性がいる場で、1人の女性に美人だ、と男性が褒めた瞬間に、その場で、(もう1人の女性より)という順位付けがなされてしまう。褒められた女性にも、褒められなかった女性にも、モヤッとする違和感を残す言動となる。そのことにまったく気付かない男性はこの世にたくさん存在する。何がいけないの?という価値観はおそらくアップデートが必要だ。海外と比べるのは好きではないが、アメリカでは、褒めるにせよ貶すにせよ、努力と関係のない外見には触れないことが暗黙のルールとなっている。だから服装やアクセサリーを褒めるのだ。他社との比較ではなく、その人固有のセンスや努力について。
と言いつつ、自分も、男友達の外見を「いじる」ことがたくさんある。太っている。痩せている。毛量が多い。少ない。筋肉がある。ない。運動ができる。知識がある。センスがある。などなど…正直、そこで発生する少量の笑いと、多少のマウンティングにもはや価値を感じない。人をいじってとる笑いのダサさに気付きつつある。そういうコミュニケーションが男ってもんだろ?という考えやノリもたまに発生するが、もうあんまり純粋に笑えない。古すぎて。自分も今後他人の外見を、笑いや、マウンティングや、会話のきっかけといったことのために利用するダサい会話をしないように気をつけたい。

2.性的・恋愛的ジョーク
いわゆる下ネタから、パートナーの有無まで。飲みの席での鉄板ネタではあるが、ここまでLGBTQの存在と権利への侵害が可視化されている現在において、もはや安全なジョークは存在し得ない。男同士で、誰が誰とやっただの、童貞をいじるだの、恋人いない歴をいじるだのも、もう飽き飽きしている。場の会話の中での個々の性の自認が確かめられていない場である限り、もはや性的なジョークは発するべきではないだろう。(だからこそ旧知の中での下ネタは仲良くなったり笑えたりするのだが、そこに頼らないといけない関係性が本当に欲しいか?とも思う)
自分は恋愛対象は女性だがいなくても問題ないという「恋愛に興味がすごく薄い」勢だが、周りの会話の中で発せられる「相手がいないなんてダメだ」「だから相手ができないんだ」「相手ができないなんて異常で、人間として問題がある」みたいな言動全てにダサさを感じる。価値観が古い上に多様性がなさすぎてヤバい。人生ゲームのルールそのものをそれぞれが設定してもいいしすべきであるのに、決まったルールの上で他者を評価しようとする近視眼的なダサさ。今後なんらかの表現や会話の中でも、このことに気をつけていきたい。ゼクシィが「結婚しなくても幸せになれる時代に、あなたと結婚したいのです。」という一見回りくどい言い回しで結婚のことをコピー化していたが、それくらい多様になった関係性の中で、画一した価値観ではもはや語れない。

3.性役割への言及
かつて結婚式において鉄板のコンテンツであったファーストバイト。「男性は食べさせるお金に困らせないよう。女性はおいしい料理をつくるように。」明確な性役割が押し付けられている台本である。今はそこはアップデートされていることが多い。去年参加した式では、そのくだりはカットされていた。
このことに代表されるように、女性が出世できない社会構造や、お茶を入れるのは女性、みたいなことや、男なら飲めだとか、泣くなだとか、いわゆる男らしさ、女らしさについて、アップデートが必要となっている。ランドセルの色も今は選ぶ時代となっている。それでも気を抜くと広告は働く男性と、家事をする女性を描いてしまう。現実がそうだから、その数字の割合に合わせてるのだ、というマーケティング的な要請もあるかもしれないが、社会構造は性役割を再生産する。それだと社会が前に進まない。SDGs的に言うと「儲からない」。日本の女性役員比率は先進国中最低レベルであり、ここ数十年経済成長が進まない理由と密接に関係していると思う。苗字を女性が変える制度も理不尽だ。このあたりを古き良き伝統と取るか、悪しき風習と取るかで、価値観は分断されてしまう。未だに「女性はあまりいい大学にいかず、結婚するのが幸せ。だから教育に力を入れすぎたくない」という意見を聞いたりもする。我が子の幸せを願うから現実に対処するとそうなるのかもしれないけど、なんか自由な選択肢が与えられていないようで、モヤッとする。男らしい、女らしいという言葉は、今後多分使わないだろう。ましてや女子力、みたいな死語も。

4.学歴、生まれ、経済格差への言及
東京で働き始めて、薄々気がつき始めたのが「私立」大学で育った人間と、それ以外の格差だ。最近はnoteでもこの分断に気付いた人の記事が話題になっていたが、お金がある環境で育ち、その価値観を身につけた人間は、そうじゃない人間を排斥する。それはマナーであり、民度であり、学歴であり、コミュニティの連帯を守る暗黙のルールである。
自分は、父は高卒だが、母は大卒で、裕福ではないが、勉強への投資をしてもらえた家庭で育ったため、国立大学へ進学することができ、地方から脱出した。そして東京で就職した。最近まで奨学金を返していた。地方→東京、公立→私立、貧乏→裕福のボーダー上を何度も行ったり来たりしながら、その線をはっきりと感じた。この分断にすら気づかず暮らしている人は大量にいる。大学で出会った私立出身の女の子の「私はたぶん私立出身の人としか結婚できない」みたいなセリフに最初は「?」と思っていたが、今はよくわかる。もはや国が違うくらいの分断があるのだ。そしてそれをコンプレックスに感じている人もたくさんいる。仕事をすればすぐに分かるが、人間的な価値や仕事の実力と、学歴はまったく関係ない。正確にいうと、与えられた環境よりも、後天的な好奇心と学習意欲の方が大切である。だが生まれついた家庭での「好奇心や向上心のフタ」があるかどうかで、その後の人生は大きく左右される。そこはアンコントロールである。そしてそのことをいじったり、侮辱したりするのは、パラサイトの例を出すまでもなく、悲劇を誘発する。社会構造が生んだ格差を自らの実力と勘違いするような無邪気さはもはや持ち合わせていない。自己責任にも責任範囲がある。格差は今後も拡大する。その中で勝とうとするよりも、自分なりのルールをつくることに注力したい。経済的、文化的、学術的ないじりは決してしないようにしたい。ジョークでよく「民度が低い」とか言ってしまうが、控えるようにしたい。

5.仕事上のハラスメント
働き方改革の例を出すまでもなく、仕事は「一部のめちゃくちゃ働くやつ」と「ルールの中で淡々と働く人」に二極化する。そして、企業というのは「いるやつでなんとかする」ものであり、それがうまい奴が「マネジメントのプロ」として出世していく。本当に優秀なプレーヤーは独立するから。
広告業界は超労働集約型であり、死ぬまで働く人たちが支えてきた。自分も35歳くらいまでは徹夜が当たり前だった。そして部下ができ始めると、もはや徹夜などはさせられなくなっている。自分が納得するまで、締め切りギリギリまで、時間を気にせず没頭する。この経験を何度も繰り返して仕事がうまくなってきた経験はあるが、もはや人には強要できないし、そもそも、本当にやる奴は禁止したってやる。やりたいんだから。
そう考えると、パワハラはありえない。こちらからは何も強要しないので、どっちしたって、やりたくない奴はやらないし、やる奴はやる。出来ることといったら、なるべくやりたい企画をやりたい奴にマッチングすることくらいだ。セクハラについては、仕事上で性別のことを一切考えないので起こりえない。他にもいろいろハラスメントがあるかもしれないが、もはや会社の中で他者に何かを強要することを放棄していて、いざとなったら全部自分でやる、と考えてるので、多分ハラスメントは起こらない。
マネジメントもまったくできてないが。これは適正の問題なのでしょうがない。広告の、特に、企画の仕事なんか、何も教えられない。背中を見せるしかない。やりたいことをやり続けるしかない。そういう意味ではこの分野のアップデートは済んでいるとも言える。とか言いながら気づいたらめちゃハラスメントになってる可能性もあるので気が抜けない。営業には厳しく要求したりするし…。

以上、今後働いたり生きていく上でアップデートしないとなーと思っている5つについてまとめた。なんていうか「調子に乗っている時の一言」「背伸びしている時の一言」「自分をよく見せようとする時の一言」なんかに出てしまう類の言動だと思うので、本当に浮つかないようになるべく冷静に等身大でマイペースに生きていこうと思いました。

あとこの記事を書こうと思ったきっかけが、お酒を飲めないことについて「子どもみたいだね」みたいにいじられたときに、急に「あっ、ここがアップデートの境界線だ」みたいに感じたから。
つまり、酒が飲める飲めないという身体的マイノリティ部分をいじることの古さや、そうやって、人ができないことをいじることでちょい優位に立つマウント式コミュニケーションのダサさや、男同士によくある他者を下げるコミュニケーションにもはや面白みを一切感じなくなっている自分の感情の変化に気付いたから。
今後、こういうことにいちいち注意する、ちょっとうるさいやつになるかもしれない。もしくは今まで通りそれを会話のネタにしながら、どんどん心が乾いていくかもしれない。どちらにしても、気づいてしまったからには変化するしかないし、できればその差分を分断と捉えず、周りの人々と共存していきたい。

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