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好きなやつしかいない

40才をすぎて、フリーランスとして働いていると、良くも悪くも、接する人が限られてくる。自然に淘汰されるというか、フィルタリングされるというか、選り好みするというか。

タイトルで書いたように、周りに好きなやつしかいなくなるのだ。人間関係のストレスが最小になるように最適化され、新しい出会いも好きなやつに紹介されるため、えてして好き(になりそうな)やつが現れる。まるで、AIがアルゴリズム的にマッチングするかのように、SNSがフィルターバブルになって心地よい価値観の情報だけが目に入るように。

こうした状況はとても心地よく、いわゆる「コンフォートゾーン」と呼ばれるような人間関係のぬるま湯であり、成長という観点から見ると、あまりよくない状態である、とも言える。

しかしながら、「成長」は価値観の優先順位としてどのあたりに位置するのであろうか。20才の若者として、これから職業的スキルを身につけ、なんらかのポジションや、実績や、権威や、知名度や、名誉を得たい。という健全な向上心がある場合は「成長」は優先度が高い価値観になるだろう。自分にもそういう時代があったような気がする。目が血走っていて、夜は眠らず、人にも自分にも厳しく、緊張とプレッシャーを養分とするような時代が。

そんな時代は過去のものとなり、今の自分にとっての最重要価値観は「心身の健康」である。

特に心の健康に気をつけており、ちょっとでもストレスになりそうなことからは全力で逃げ出し、距離を置き、はぐらかし、ごまかし、姿を消す傾向がある。

簡単にいうと「嫌なやつがいる時間・空間に1秒でも1ミリでもいたくない」これである。

思い返せば、幼稚園から会社に至るまで、どのコミュニティにも嫌なやつがいた。小学生なら喧嘩したら担任の先生の前で握手させられるという屈辱的な儀式に耐え忍んでいたが、今は唾を吐いてその場を離れることができる。会社になんか嫌な言動するやつがいた場合、社会人として最低限の挨拶と事務連絡くらいは真顔でできるものの、今はすぐにその仕事から降りることができる。その背景に存在する無数の責任や、紹介者の顔や、迷惑をかける残された作業者やもろもろを考えたときに、責任を放棄することはできない、という考えもあると思う。その期待と責任だけで駆動する国民的アーティストやマンガ家もたくさんいるだろう。

しかし、フリーランスのクリエイティブディレクター/コピーライターが背負う責任はいつでも代替可能であり、自分が仕事を失うという明確な責任の取り方が、むしろ気持ちを自由にしてくれている。

結果として、気持ちよく仕事や遊びができる好きなやつらしか、周りにいなくて、そのことがじぶんにとってとても心地いい。もし、起業して、投資家に頭下げて、社員の家族の私立受験費のことを想像しながら、理不尽な仕事先と接することになっていたら、と想像すると、とてもできなさそうだ。

そんな小さなことなど簡単に乗り越えられるくらいの大義・ビジョン・パーパス・信念・野望・欲望・夢を持って事業を推進する方々はすごい。どうでもいい。

自分にとっては、成長も、社会的意義も、経済的達成も、本当にどうでもいい。まったく成長しなくていいし、大人として立派にもならなくていい。周りを好きなやつだけで埋め尽くして、好奇心の赴くままに遊んでいたい。その取り組みが、結果的に誰かを幸せにする場合においてのみ、サステナブルな人生を送ることができるのであろう。まあ最悪サステナブルじゃない場合もどこかで死ぬわけだし、あまり気にしなくていいだろう。

というわけで、周りに好きなやつしかいないことへの喜び・感謝・楽しさと、それに伴う幼児性・反社会性・脱成長性についての文章でした。

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