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ラララ問題

ラララ問題である。特に日本語圏の楽曲において最もよく使われるオノマトペは「ラララ」なのだ。歌を適当に歌うとき、人はラララという。ルルルの場合もあるが、多くはラララだ。なぜか?舌のタンギングなど肉体的機能的制限から発声&コントロールしやすいから、みたいな論がある。しかし、今回興味があるのはWHYではなく、その結果としての分類である。

プロフェッショナルが曲をつくる時、メロディと時代と共感と情景の間でベストな言語をあてていくはずだが、時に登場するのが「ラララ」なのだ。ある意味逃げのようでもあり、ある意味ベストな選択肢であったりする。「歌を歌っている様な気持ち」というメタ的な表現の可能性もある。

1.サビ型

分類として、いちばんわかりやすいのは、サビ型である。代表的なのは大黒摩季「ら・ら・ら」であろう。タイトルも「ら・ら・ら」だし、サビの半分も「ら・ら・ら」である。

ら・ら・ら〜今日と明日はあなたに会えない

文字列でみると省略されているが、1回のサビにおける「ら」は11音4小節にわたって繰り広げられている。圧巻の「ら」である。この曲が最も伝えたいこと、それは「ら・ら・ら」である。どこか投げやりで、しかし、前向きな「ら」。前後の歌詞を読むと、いろいろストレスフルな毎日だしあなたにも会えないけど、らららっていってりゃなんとかなる的な、南無阿弥陀仏的な「ら・ら・ら」であり、かつて歌や踊りは神々に捧げるもの、五穀豊穣・悪霊退散的な意味であったことを考えるとものすごく根源的な「ら・ら・ら」なのかもしれない。・(なかぐろ)も意味ありげでなんか迫力を感じる。なんだったら現実と全く向きあわず、らららって言ってりゃ大丈夫っしょ、的な怖さまで感じられる。かつてピート・タウンゼントは

ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま踊らせるのだ

と言ったが、「ら・ら・ら」はそのことをたった1文字で教えてくれるのだ。

2.フック型

そして、タイトル型で次に浮かぶのは久保田利伸「LA・LA・LA LOVESONG」であろう。「ロング・バケーション」主題歌として大ヒットしたこの曲。この「LA・LA・LA」にも・(なかぐろ)がついており、どこか呪術めいたものを感じる。ただ、この「LA・LA・LA」は、大黒摩季の「ら・ら・ら」とは違い、非常にあっさりしている。LOVESONGを引き立てるためのフェイクというか、飾り的な要素が強い。歌詞やサビにおける分量の少なさからもそれを感じ取ることができる。サビの主役ではなくメロディのフックとして使っていることがわかる。高音にのびやかに歌い上げる「らららら〜らら〜ぶそ〜んぐ」の部分の歌いやすさ、気持ちよさは、カラオケで愛される「歌いやすさ」「覚えてもらいやすさ」みたいなことも意識されているように感じる。これはアーティストとしてR&B的なリズムの洗練を日本に広げる上で、よりキャッチーに、より大衆的に、ドラマ主題歌としての楽曲づくりに徹した久保田利伸のバランス感覚だったのではないか。

そして、サビに「ラララ」が出てくる曲はまだまだある。例えばウルフルズの「バンザイ〜好きでよかった〜」である。これもまた、フックとしての「ラララ」が効いている。逸話としては「最後までいい歌詞が浮かばなかったから仮歌のままいったら当たった」というのを放送作家・高須光聖に語ったとされている。スピッツ「ロビンソン」の「ルララ宇宙の風に乗る」などもフック型である。サビのいちばん盛り上がる場所、感情が振り切れる箇所、いわゆる高音部に当てられることが多く、その歌いやすさと意味の消失が、音楽の原始的な快楽に結びついて、脳を多幸感でいっぱいにしてくれる。

ここから少し拡張して、「ラララ」以外のオノマトペ的な歌詞についても触れていきたい。例えばMY LITTLE LOVERの「ALICE」である。歌詞カードを見てぶったまげた人も多いのではないだろうか。

体がHEARTに何か伝えたがっている
*+▼☆△▲×□って意味を越えている
世界中に広がっていくネットワークみたいに
☆▼□×+▲*△って心を旅する

この意味不明な記号の羅列部分は「リギリンラン リギリンラン」「リギリンラン リギリギラン」などと聞き取れるが正確な発声は定かではない。これもまた、歌詞に書いてある通り「意味を越えている」。ある意味あきらめているともとれるし、いやそもそも音楽の歌詞は語呂合わせであり、メロディを楽しめばいいじゃん的なスタンスも感じ取れる。この、曲がよけりゃあ、ある程度適当でもいいっしょ感が、逆説的に言葉への誠実なスタンスやこだわりにも感じ取れて、いまとなってはこれしかないのでは、という言葉の並びに感じるのが不思議である。

3.オール型

これはもはやすべてを「ル」や「ラ」にしてしまっていて、ここまでいくと大味というか、最初から意味はつけませんって感じである。わかりやすいのは、「風の谷のナウシカ」のナウシカ幼少の頃の歌である。あれは「ナウシカ・レクイエム」という曲名がついている。レクイエムとは鎮魂歌という意味であるから、このタイトルが最も曲が言いたいことを表していることになる。この曲が映画中では、ナウシカがオームの幼虫を庇うが大人たちに連れていかれる、という悲しい回想に使われる。また、ナウシカがオームの大群に弾き飛ばされて一時は命を失う、という場面でも使われ、命が消える瞬間の歌であるので、レクイエムというのは言い得て妙である。

由紀さおりの「夜明けのスキャット」は、位置付けが難しいが、ほぼオール型と考えていいのではないだろうか。曲の後半に一応歌詞はあててあるが、ここまでくると、もはや歌詞の方がおまけ扱いというか、本来は歌詞がないものに無理やりつけてみました感さえ生まれている。

4.スキャット型

スキャットとは、ジャズなどで歌詞の代わりに意味のない単語で歌うことであるが、このネーミングはルイ・アームストロングが考案したと言われている。「歌詞を忘れたから」生まれたと語られており、失敗は発明のそばにあると気付かされるのである。そして、日本においてスキャットといえば先ほど挙げた「夜明けのスキャット」もさることながら、スキャットマンである。「SCATMAN (Ski-Ba-Bop-Ba-Dop-Bop)」は日本で大ヒットしたが、実はスキャットマン自身は吃音に悩まされており、そのことを逆手に取った楽曲であったことはあまり知られていない。

But what you don't know, i'm gonna tell you right now 
That the stutter and the scat is the same things. 
でもあなたが知らないことを言うよ
吃音とスキャットは同じものだということ


広義の「ラララ」は、意味を放棄した呪文であり、歌詞を忘れた失敗であり、コンプレックスを逆手にとった魔法であったのかもしれない。サブスクリプション全盛のこの時代に、新たな「ラララ」が生まれるのが楽しみである。

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